守貞親王 (もりさだしんのう)
【概説】
鎌倉時代中期の皇族。承久の乱後に鎌倉幕府の主導によって擁立され、天皇の位(皇位)を経ずに「治天の君」として院政を執った人物。異母弟である後鳥羽上皇の系統が失脚したのち、息子の後堀河天皇の即位に伴って太上天皇の尊号(後高倉院)を贈られた。
承久の乱と皇位継承の危機
1221年(承久3年)、後鳥羽上皇が鎌倉幕府を打倒すべく挙兵した承久の乱は、幕府側の圧倒的な勝利に終わった。戦後処理として、首謀者である後鳥羽上皇、順徳上皇、および乱に直接関与しなかった土御門上皇の三上皇が配流され、後鳥羽の孫にあたる仲恭天皇(九条廃棄帝)はわずか在位大約仲2ヶ月余りで廃位された。
これに伴い、幕府(実権を握る尼将軍・北条政子や執権・北条義時ら)は、後鳥羽上皇の血統を皇位から完全に排除するという方針を決定した。しかし、当時の皇室において、後鳥羽の血を引かない適切な後継者を見出すことは困難を極めた。そこで白羽の矢が立ったのが、高倉天皇の第二皇子であり、後鳥羽上皇の異母兄にあたる守貞親王であった。
守貞親王はかつて源平合戦の際、平氏一門に連れられて都落ちした経験(安徳天皇と同世行)があり、帰洛後は皇位継承レースから外れて出家し、行助入道親王と名乗って静かに暮らしていた。幕府は、この政治的に無色であった守貞親王の第三皇子である茂仁親王(当時10歳)を、後堀河天皇として即位させることとした。
前代未聞の「皇位を経ない院政」
新天皇となった後堀河天皇はあまりに幼少であったため、国政を後見する「治天の君(院政を行う上皇)」が必要であった。しかし、父である守貞親王は一度も天皇の位に就いたことがなく、出家した身でもあった。本来、院政は「天皇を退位した太上天皇(上皇)」が行うのが原則であったため、皇位を経ていない者が治天の君となることは、前代未聞の事態であった。
この危機に対し、幕府と朝廷は妥協策を講じた。守貞親王に特別に「太上天皇」の尊号を奉り、事実上の上皇(後高倉院)として遇することで、治天の君として院政を執り行う権能を与えたのである。これは日本の朝廷史において、皇位に即かないまま院政を行った唯一無二の特異な事例として知られている。
後高倉院政の歴史的意義と影響
後高倉院による院政は、1221年から彼が崩御する1223年(貞応2年)までのわずか2年間であったが、その歴史的意義は大きい。承久の乱によって完全に瓦解しかけた朝廷の政治秩序を速やかに再建し、社会の安定をもたらす役割を果たした。
また、この院政は鎌倉幕府の強い後盾(事実上の傀儡・協調体制)のもとで成立したため、朝廷の意思決定には常に幕府(六波羅探題)の意向が強く反映されるようになった。後高倉院の崩御後も、この系統(後高倉院流)は後深草天皇と亀山天皇の兄弟による「持明院統」と「大覚寺統」の分裂へと繋がっていき、中世後期の皇位継承問題に大きな影を落とす契機となった。