彰義隊 (しょうぎたい)
【概説】
江戸無血開城に反対する旧幕臣や一橋家家臣らによって結成された反新政府武装組織。東叡山寛永寺(現在の上野公園周辺)を拠点に新政府軍と対峙したが、大村益次郎率いる新政府軍の圧倒的な軍事力の前にわずか1日で鎮圧された(上野戦争)。
結成の背景:江戸無血開城への不満と主家への忠誠
1868年(慶応4年)1月、鳥羽・伏見の戦いで勝利した新政府軍は、徳川慶喜を「朝敵」として征討すべく江戸へ向けて進軍した。これに対し、慶喜は江戸城を出て上野の寛永寺で謹慎し、恭順の姿勢を示した。同年3月、勝海舟と西郷隆盛の会談によって江戸無血開城が合意されたが、この妥協的な解決策に納得のいかない旧幕臣や、徳川家・慶喜を救おうとする血気盛んな者たちが反発した。
こうした中、一橋家家臣の渋沢成一郎や天野八郎らが中心となり、徳川家擁護と徹底抗戦を掲げる「彰義隊」が結成された。彼らは慶喜の護衛を名目に寛永寺を拠点とし、江戸の治安維持を勝手に自負して新政府軍と睨み合った。のちに慶喜が水戸へ退去した後も彰義隊は寛永寺に留まり、輪王寺宮公現法親王(後の北白川宮能久親王)を擁立して、新政府軍への抵抗姿勢を強めていった。
上野戦争:大村益次郎の合理主義と近代兵器による圧倒
江戸の治安を揺るがす彰義隊に対し、新政府軍の軍監に任命された大村益次郎(長州藩出身)は、武力による徹底的な掃討作戦を立案した。大村は、彰義隊が立てこもる上野の地形を緻密に分析し、包囲網を敷いた。そして1868年5月15日、新政府軍は上野山への総攻撃を開始した。これが上野戦争である。
彰義隊は地の利を活かして一時的には激しく抵抗したものの、新政府軍が配備した最新鋭の近代兵器には歯が立たなかった。特に、佐賀藩が佐賀反射炉で製造したアームストロング砲(あるいはスナイドル銃など)による本郷加賀藩邸跡からの遠距離砲撃は、寛永寺の防御を粉砕し、彰義隊の戦意を喪失させた。激戦は雨の中で行われたが、わずか1日で新政府軍の圧倒的な勝利に終わり、彰義隊は壊滅して敗走した。
歴史的意義:関東の平定と戊辰戦争の北上
彰義隊の壊滅は、それまで新政府に対して不穏な空気を残していた江戸および関東地方における旧幕府勢力の抵抗力を完全に奪い去る結果となった。これにより、新政府は江戸周辺の治安を完全に掌握し、同年7月には江戸を「東京」と改称して遷都(東京行幸)への足がかりを築いた。
また、上野から逃げ延びた彰義隊の残党の多くは、榎本武揚の率いる旧幕府艦隊に合流するなどして北へと向かった。彼らはこの後、東北地方の奥羽越列藩同盟による抵抗運動や、箱館(五稜郭)での最後の決戦へと身を投じることになり、戊辰戦争は地方へと戦火を拡大させながらも、終結へと向かうこととなった。