奥羽越列藩同盟 (おううえつれっぱんどうめい)
【概説】
戊辰戦争期において、新政府軍に対抗するために東北(奥羽)および北越地方の諸藩が結成した大規模な攻守同盟。会津藩および庄内藩の赦免嘆願が拒絶されたことを契機に、仙台藩・米沢藩が中心となって組織された。新政府に対抗する「もう一つの政府(北部政府)」としての性質も備えていたが、軍事力の差や加盟藩の足並みの乱れから、結成後わずか数ヶ月で崩壊した。
成立の背景:会津・庄内救済運動の挫折と世良修蔵暗殺事件
1868(慶応4)年1月、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍を破った明治新政府は、前幕府領や親藩・譜代大名が割拠する東北地方の掌握を目指し、奥羽鎮撫総督府を派遣した。新政府は特に、京都守護職として尊王攘夷派を弾圧した会津藩主・松平容保、および江戸市中取締として薩摩藩邸焼き討ちなどを行った庄内藩主・酒井忠篤を「朝敵」と指名し、その武力討伐を奥羽諸藩(特に仙台藩・米沢藩)に命じた。
しかし、隣国である会津・庄内の武力討伐に消極的であった東北諸藩は、会津藩の謝罪恭順書を提出するなどして、平和的な解決(会津・庄内の赦免嘆願)を模索した。仙台藩の白石城に集まった諸藩の代表は、新政府へ提出する嘆願書をまとめたが、奥羽鎮撫総督府の下参謀であった長州藩士・世良修蔵らはこれを断固として拒絶し、即時追討を要求した。
新政府側の高圧的な態度に反発した仙台藩士らは、世良修蔵が密書に書いた「奥羽皆敵」という文言に激怒し、彼を急襲して処刑した。この世良の暗殺により、東北諸藩と新政府との平和交渉の道は完全に閉ざされ、全面戦争へと突入せざるを得なくなった。こうして1868年5月、東北25藩による奥羽列藩同盟が結成され、のちに長岡藩や新発田藩など北越6藩が加わることで、計31藩による「奥羽越列藩同盟」へと拡大した。
組織の性格:「北部政府」の構想と国際社会への働きかけ
奥羽越列藩同盟は、単なる地方の一時的な軍事同盟にとどまらず、新政府(太政官)に対抗する独立した政治主体、すなわち「北部政府」としての国家構想を有していた。
同盟軍は、上野戦争から逃れてきた寛永寺貫首・輪王寺宮公現法親王(のちの北白川宮能久親王)を「東武皇帝(または盟主)」として推戴した。これは、薩長を中心とする新政府が明治天皇を擁して「錦の御旗」を掲げたのに対し、同盟側も独自の「皇族」を擁立することで、自らの正当性を確保し、新政府を「薩長叛臣の徒」と位置づけるための対抗策であった。
また、同盟側はプロイセンやイギリス、フランスなどの外国勢力に対して照会書を送り、自らが日本の正当な統治権の一部を持つ存在であることを主張し、武器の調達や軍事支援を得ようと画策した。特に越後長岡藩の家老・河井継之助は、ガトリング砲などの近代兵器を調達し、新政府軍に対して激しい抵抗を見せることとなる。
同盟の瓦解:足並みの乱れと新政府軍の圧倒的軍事力
同盟は一見強固な組織に見えたが、その内実は、親幕府的な会津藩から、新政府との対立を望まない消極的な親藩・外様藩まで、新政府に対する温度差が非常に大きい「野合の衆」であった。統一的な指揮権や軍事戦略を欠いた同盟軍は、物量と新鋭兵器に勝る新政府軍の猛攻の前に、次第に追い詰められていった。
新政府軍が日本海側と太平洋側の両面から進撃を開始すると、まず北越戦争で長岡藩が落城し、日本海側の拠点が失われた。さらに、同盟の一角であった秋田藩(久保田藩)や弘前藩が新政府側に寝返り、同盟軍は内部からの分断を余儀なくされた。これにより東北北部での防衛線が崩壊した。
太平洋側からも、新政府軍が平潟(茨城県)から上陸して磐城地方を制圧し、白河関の戦いで同盟軍を破って一気に仙台・会津へと迫った。抗戦能力を失った米沢藩、次いで盟主格であった仙台藩が降伏し、同盟は事実上崩壊した。孤立無援となった会津藩は、若松城(鶴ヶ城)に籠城して約1ヶ月に及ぶ壮絶な死闘(会津戦争)を繰り広げたが、1868年9月に降伏し、東北における戊辰戦争は終結した。戦火はその後、榎本武揚ら旧幕府海軍が占領する箱館(五稜郭)へと移っていくこととなる。