私擬憲法案 (しぎけんぽうあん)
【概説】
明治時代初期の自由民権運動期に、民間の政治結社や知識人によって自主的に作成された憲法草案の総称。国家の基本法である憲法のあり方をめぐり、民衆や知識層が主主体的に議論を交わした言論活動の結晶である。交詢社が起草したイギリス型の穏健な議院内閣制モデルから、主権在民や抵抗権を定めた急進的なものまで、全国で多様な草案が誕生した。
自由民権運動の展開と憲法論議の高まり
1874(明治7)年の「民撰議院設立建白書」の提出に始まる自由民権運動は、1880年代に入ると国会開設を求める請願運動へと発展し、最高潮を迎えた。これに対し明治政府は、1881(明治14)年に「国会開設の勅諭」を発布し、10年後の国会開設を約束せざるを得なくなった。この動きと並行して、将来制定されるべき憲法のあり方について、民間側から具体的な提案を行う動きが活発化した。これが「私擬憲法案」の輩出される歴史的背景である。これらは単なる学者の一案にとどまらず、政党や各地の政治結社(結社)の学習会などを通じて集団で討議され、政治要求の理論的支柱として機能した。
交詢社憲法案の特徴と明治十四年の政変
数ある私擬憲法案の中でも、最も早く発表され、社会的影響力が大きかったのが、福沢諭吉が提唱して結成された社交クラブ「交詢社(こうじゅんしゃ)」による「私立憲法草案」(1881年)である。この草案は、イギリスの政治制度を範にとり、君権を制限しつつ国会に重きを置く議院内閣制(多数党が内閣を組織する制度)の導入を主張した。君主(天皇)の地位を維持しつつも現実的な統治の安定を図るその内容は、比較的穏健で実現可能性の高いものであった。しかし、この時期に参議の大隈重信が同様のイギリス型憲法の早期制定を主張したことは、ドイツ(プロイセン)型の君主権の強い憲法制定を目指す岩倉具視や伊藤博文ら政府主流派に危機感を抱かせ、大隈の追放と国会開設の約束を伴う「明治十四年の政変」を引き起こす契機となった。
多様な私擬憲法案と自由民権運動の歴史的意義
私擬憲法案は、交詢社の穏健な案のほかにも、各地の思想的傾向を反映した多様な広がりを見せた。立志社の植木枝盛が起草したとされる『東洋大日本国国憲案』は、一院制の採用や主権在民を明記し、さらには国民の抵抗権・革命権までを認める極めて民主的かつ急進的な内容として知られる。また、近年では東京都あきる野市の深沢家から発見された『五日市憲法草案』(千葉卓三郎らが起草)のように、地方の青年や農民たちが学習会を重ね、基本的人権の尊重を細かく規定した草案を独自に作成していたことも明らかになっている。これらの私擬憲法案は、当時の日本人が西欧の近代思想を深く受容し、主体的に近代国家の骨組みを模索していたことを示す極めて重要な歴史的史料である。