労農派
【概説】
1927年創刊の雑誌『労農』に結集した、非日本共産党系のマルクス主義者による知識人・活動家グループ。昭和初期の「日本資本主義論争」において講座派と激しく対立し、日本はすでに資本主義段階に到達しているため直接の社会主義革命が可能であると主張した。
「一段階革命説」と講座派との論争
1920年代後半から1930年代にかけて、日本のマルクス主義者の間では、当時の日本社会の性質とそれに基づく変革の道筋をめぐる日本資本主義論争が展開された。コミンテルン(国際共産党)の指導を重視する講座派が、日本にはいまだ寄生地主制や絶対主義的天皇制という「半封建的」な要素が根強く残っているため、まずは民主主義革命を経る必要があるとする「二段階革命説」を唱えたのに対し、労農派はこれに真っ向から反論した。
労農派は、明治維新によって日本は実質的な資本主義社会へ移行しており、当時の日本はすでに高度な金融資本主義・帝国主義の段階にあると分析した。したがって、当面の変革目標は天皇制の打倒ではなく、資本家階級(ブルジョアジー)を対象とした直接の社会主義革命であるべきだとする「一段階革命説」を提示した。このグループには、山川均、荒畑寒村、向坂逸兵、大内兵衛らが主要メンバーとして名を連ねた。
弾圧による崩壊と戦後革新勢力への影響
労農派は政党組織を持たず、論壇や労働運動の後援を通じて活動したが、昭和恐慌以降のファシズム化と軍国主義の台頭に伴い、国家権力による厳しい治安維持法弾圧の対象となった。1937年から1938年にかけて、日中戦争下での反戦・反ファシズムの動きを警戒した警察当局により、主要メンバーが根こそぎ検挙される人民戦線事件が発生し、労農派の組織と論活動は壊滅を余儀なくされた。
しかし、労農派の思想と理論は戦後、思わぬ形で復活を遂げる。第二次世界大戦後に結成された日本社会党において、その左派グループ(向坂逸兵を中心とする社会主義協会など)は労農派の理論的系譜を継承し、戦後日本の労働運動や革新勢力の主要な理論的支柱として大きな足跡を残すこととなった。