野呂栄太郎 (のろえいたろう)
【概説】
大正から昭和初期にかけて活動した日本のマルクス主義経済学者。岩波書店から刊行された『日本資本主義発達史講座』の企画・編纂を主導し、「講座派」の理論的指導者として日本資本主義論争を牽引した知識人。
マルクス主義への傾倒と『日本資本主義発達史』の執筆
野呂栄太郎は北海道に生まれ、慶應義塾大学在学中から社会運動に関わり、マルクス主義経済学の研究に没頭した。大正デモクラシーの進展やロシア革命の衝撃を背景に、当時の日本の知識層の間では、日本社会の構造的矛盾を解き明かす理論としてマルクス主義が急速に受容されつつあった。野呂は持病の結核と闘いながら精力的な研究を続け、1930年に『日本資本主義発達史』を公刊した。この著作は、明治維新以降の日本における資本主義の形成過程を実証的に分析したものであり、当時の学界や社会運動に極めて強い影響を与えた。
日本資本主義論争における「講座派」の指導者
1932年、野呂は羽仁五郎や山田盛太郎、平野義太郎らとともに、岩波書店から『日本資本主義発達史講座』を刊行した。この執筆陣の立場は、当時の日本を「絶対主義的天皇制と半封建的な寄生地主制が支配する、近代化の不十分な国家」と規定し、まずは天皇制を打倒するブルジョア民主主義革命を達成した上で、社会主義革命へと進むべきだとする「二段階革命論」を提唱した。このグループは書名から「講座派」と呼ばれるようになる。これに対し、日本はすでに近代的な資本主義国家に達しているとして、直ちに社会主義革命を目指すべきだと主張する山川均や向坂逸郎らの「労農派」との間で、激しい「日本資本主義論争」が展開された。野呂はこの論争において、講座派の絶対的な理論的支柱として議論を主導した。
軍国主義の台頭と治安維持法による悲劇
昭和初期、満州事変の勃発や15年戦争への突入に伴い、国家による思想統制と左翼運動への弾圧は日を追うごとに激化していった。野呂は非合法化されていた日本共産党に加わり、検挙された指導部に代わって1933年に再建中央委員長(指導部責任者)に就任して地下活動を支えた。しかし同年11月、スパイの密告によって特高警察(特別高等警察)に検挙された。病弱であった野呂は、過酷な取り調べと拷問によって病状が急激に悪化し、翌1934年2月に釈放後間もなく33歳の若さで急逝した。野呂の獄死は、ファシズムへと傾斜していく昭和戦前期の過酷な思想弾圧を象徴する出来事であり、彼の提示した日本社会分析は、戦後の日本史学や社会科学の出発点として長く受け継がれることとなった。