講座派 (こうざは)
【概説】
昭和初期の日本において、岩波書店から刊行された『日本資本主義発達史講座』の執筆陣を中心に形成されたマルクス主義の一派。当時の日本社会を絶対主義的天皇制と寄生地主制に基づく「半封建的」な段階にあると規定した。対立する労農派との間で「日本資本主義論争」を展開し、戦前の社会科学や左翼運動に決定的な影響を与えた。
『日本資本主義発達史講座』の刊行と主導者たち
大正デモクラシー期から昭和初期にかけて、マルクス主義の思想は日本の知識層や学生の間に深く浸透していった。そうした理論的深まりを背景に、1932(昭和7)年から1933(昭和8)年にかけて岩波書店から全4部・計13巻に及ぶ『日本資本主義発達史講座』が刊行された。この講座の企画・編集を主導したのが、若きマルクス主義経済学者である野呂栄太郎であり、彼を中心に羽仁五郎、山田盛太郎、平野義太郎ら気鋭の研究者が執筆陣に名を連ねた。この記念碑的な著作の刊行を契機として、彼らの思想的・学問的立場を支持するグループは「講座派」と呼ばれるようになった。
「半封建的」現状分析と二段階革命論
講座派の最大の特徴は、当時の日本資本主義の発展段階に対する独自の分析視角にあった。彼らは、明治維新によって成立した近代日本社会の基盤には、極めて前近代的な要素が残存していると捉えた。具体的には、農村における寄生地主と小作農の過酷な支配関係(寄生地主制)を「半封建的土地所有」とみなし、さらにその上に君臨する国家体制を「絶対主義的天皇制」と規定した。この認識に基づき、講座派は日本が社会主義へと至るためには、まず天皇制と寄生地主制を打倒するブルジョア民主主義革命を達成し、その後に社会主義革命へと進むべきであるとする「二段階革命論」を提唱した。これは、国際共産主義運動の指導機関であったコミンテルンが1932年に出した方針(三二年テーゼ)を理論的に裏付ける役割も果たした。
労農派との対立と日本資本主義論争
講座派の「半封建的」という現状認識に対し、雑誌『労農』に拠る向坂逸郎や大内兵衛らのグループ(労農派)は激しく反発した。労農派は、明治維新によって日本はすでに高度な資本主義国へと脱皮しており、農村の封建的な遺制は資本主義に包摂された二次的な問題にすぎないと主張した。そのため、日本が目指すべきは直ちに社会主義革命を行うことであるとする「一段階革命論」を唱えた。この両派の間で交わされた激しい論争は「日本資本主義論争」と呼ばれ、当時の経済学、歴史学、社会学の分野を大きく活性化させた。しかし、1930年代後半のファシズム台頭に伴い、国家による思想統制と弾圧が激化。1936年のコム・アカデミー事件などで講座派の主要メンバーが一斉検挙され、運動と論争は強制的に終息させられることとなった。