日本憲法見込案 (にほんけんぽうみこみあん)
【概説】
明治初期の1880年に、政府の立法諮問機関である元老院が作成した公的な憲法草案。ヨーロッパの君主立憲制を模範とし、議会の権限を広く認めるなど自由主義的な色彩が強かったが、君権の強化を目指す岩倉具視らの反対により却下された。
元老院による憲法起草の背景
1870年代、板垣退助らによる民撰議院設立建白書の提出を契機として、日本国内では自由民権運動が急速に高まりを見せていた。こうした民間の憲法制定運動や国会開設要求に対抗するため、明治政府は独自の立憲体制の構築を迫られることとなった。
1875年(明治8年)の大阪会議を経て、政府は「漸次立憲政体樹立の詔」を発布し、国家の基本法たる憲法の制定に着手する。これに伴い設置された元老院に対し、1876年に明治天皇から憲法草案の起草が命じられた。元老院内に設置された憲法取調局を中心に、各国の憲法研究が進められ、数次の草案を経て1880年(明治13年)にまとめられたのが「日本憲法見込案」である。
「見込案」の特徴とベルギー憲法の影響
「日本憲法見込案」の最大の特徴は、当時のヨーロッパにおいて極めて民主的かつ先進的とされたベルギー憲法を強く意識し、その条文を多く模倣していた点にある。
この草案では、立憲君主制の枠組みを採用しつつも、天皇の権限(君権)を制限し、二院制からなる国会に強い権限を与える内容となっていた。具体的には、議会が予算の議決権や法案の協賛権を持ち、内閣は議会に対して一定の責任を負うという、イギリス型の議院内閣制に近い要素を含んでいた。これは、当時のアジアにおいて最も進歩的な君主立憲制の導入を試みた、極めて意欲的な試みであったと言える。
岩倉具視ら保守派の反発と大日本帝国憲法への帰結
しかし、この自由主義的な「日本憲法見込案」は、政府内の保守派から激しい反発を受けることとなった。特に右大臣であった岩倉具視は、「天皇の権限が著しく弱く、ベルギー憲法などの引き写しにすぎない」として、日本の伝統的な国家体制(国体)に適合しないと猛烈に批判した。
岩倉は井上毅らに命じて対抗策を練らせ、より君主(天皇)の権限が強いプロイセン(ドイツ)憲法を模範とすべきであると主張した。この結果、「日本憲法見込案」は不採用となり却下された。
この挫折を経て、政府内ではイギリス流・ベルギー流の立憲制を支持する大隈重信らと、プロイセン流の絶対主義的君権を支持する伊藤博文・岩倉具視らの対立が激化する。この政争は最終的に1881年の「明治十四年の政変」における大隈の追放へと繋がり、後の大日本帝国憲法(1889年発布)が極めて強い天皇大権を持つプロイセン型憲法を範とする決定的な契機となった。