日朝修好条規(江華条約) (にっちょうしゅうこうじょうき(こうかじょうやく)
【概説】
1876年(明治9年)、前年の江華島事件を契機として、日本が朝鮮(李氏朝鮮)との間に締結した近代的な外交条約。日本が砲艦外交によって朝鮮を開国させ、領事裁判権の承認や関税の免除などを認めさせた、日本側にとって有利な不平等条約である。
国交回復交渉の難航と江華島事件
明治政府は成立直後から、対馬の宗氏を介して李氏朝鮮に王政復古を通告し、国交の樹立を求めた。しかし、日本側の国書(書契)に「皇」や「勅」など、中国の皇帝のみが使用する文字が含まれていたことや、日本の使節が洋装であったことへの反発から、朝鮮側は国書の受け取りを拒否した。当時、朝鮮では興宣大院君が政権を掌握し、強固な鎖国攘夷策(衛正斥邪)をとっていたためである。この書契問題をめぐり、日本国内では武力で朝鮮を開国させようとする征韓論が台頭し、明治6年の政変による西郷隆盛や板垣退助らの下野を招くこととなった。
その後も国交樹立の糸口が掴めない中、日本政府は1875年、軍艦の雲揚号などを朝鮮沿岸に派遣し、挑発行動を行った。これに対して朝鮮側が砲撃を加えると、日本側は猛反撃して砲台を占領した(江華島事件)。日本はかつて幕末に欧米列強から受けた「砲艦外交(軍事力を背景とした威圧外交)」をそのまま模倣し、この軍事衝突を口実として朝鮮に開国を迫ったのである。
条約の主な内容と不平等性
1876年2月、黒田清隆を全権、井上馨を副全権とする日本使節団は、軍艦を伴って江華島に赴き、朝鮮側に条約締結を強要した。こうして結ばれた日朝修好条規(江華条約)は、全12款からなる。
その最大の焦点は、第一款の「朝鮮国は自主の邦にして、日本国と平等の権を保有す」という規定であった。一見すると両国の対等な関係を謳っているように見えるが、その真の狙いは、朝鮮に対する清国の宗主権(事大・朝貢関係)を否定し、日本が朝鮮へ政治的・軍事的に介入するための足場を固めることにあった。
さらに、釜山・元山・仁川の三港を開港させること、日本の沿岸測量権を認めること、そして日本人に領事裁判権(治外法権)を認めることなど、日本側に極めて有利な内容であった。また、同年8月に結ばれた付属条約(日朝修好条規附録および日朝貿易規則)によって、日本の輸出入品の関税免除、日本貨幣の通用、米穀の無制限輸出などが規定され、完全な不平等条約となった。
東アジア国際関係への影響と歴史的意義
日朝修好条規の締結は、長らく続いた朝鮮の鎖国体制を崩壊させ、同国を近代的な国際関係(万国公法体制)の舞台へ引きずり出す画期的な出来事であった。しかし、それは同時に朝鮮の半植民地化への第一歩でもあった。とくに関税免除と米穀の無制限輸出は朝鮮の伝統的な産業や民衆生活に深刻な打撃を与え、朝鮮国内における排日感情を急速に高めていくこととなる。
また、この条約によって日本が清国の宗主権を否定したことは、東アジアにおける伝統的な華夷秩序に対する重大な挑戦であった。これを機に、朝鮮半島に対する影響力を維持しようとする清国と、大陸進出を企図する日本の対立は決定的なものとなった。やがて両国は、壬午軍乱(1882年)や甲申事変(1884年)といった朝鮮国内の政変の背後で激しく衝突し、最終的に1894年の日清戦争へと至ることになる。日朝修好条規は、日本が自らの不平等条約改正に苦闘する一方で、近隣アジア諸国に対しては欧米型の帝国主義的な進出を開始したことを象徴する歴史的転換点と言える。