雲揚 (うんよう)
【概説】
明治初期に大日本帝国海軍が保有していた木造の砲艦。1875年(明治8年)に朝鮮の江華島周辺で発生した軍事衝突(江華島事件)において、朝鮮側からの砲撃を誘発させる意図的な挑発行動を行った軍艦として知られる。
雲揚の出自と朝鮮派遣の背景
雲揚(雲揚艦)は、もともと幕末にイギリスで建造され、長州藩が購入した軍艦である。明治政府が発足したのち、政府に献上されて兵部省(のちの海軍省)の管轄となった。当時の日本は、明治維新によって近代化を進める一方、隣国である朝鮮(李氏朝鮮)に対して国交の樹立を求めていた。しかし、朝鮮側は「鎖国・攘夷」を国是としており、日本の近代的な外交文書(書契)の形式が、伝統的な中華秩序(華夷秩序)に反するとして受け入れを拒否した(書契問題)。これにより日朝交渉は完全に膠着し、日本国内では武力をもって開国を迫る「征韓論」が台頭することとなった。
江華島事件における「水路測量」と挑発行動
交渉の進展を図る明治政府は、1875(明治8)年、軍事的な威嚇によって朝鮮に開国を迫る方針に転じた。同年9月、井上良馨艦長率いる雲揚は、清国への航路調査と朝鮮沿岸の「水路測量」を名目に、朝鮮の首都ソウルの防衛上の要衝である江華島の周辺海域に侵入した。雲揚は、朝鮮側の許可を得ずに無断で測量を実施し、さらに「真水の補給」を口実にして、武装したボート(短艇)を漢江の河口近くへと派遣した。この極めて挑発的な行動に対し、警戒を強めていた江華島の草芝鎮砲台が威嚇射撃を行った。これを受けた雲揚は、近代的な艦砲射撃によって砲台に大打撃を与え、さらに付近の永宗島に陸戦隊を上陸させて放火や略奪を行うなど、圧倒的な軍事力で朝鮮側を制圧した。これが江華島事件(雲揚号事件)である。
「砲艦外交」の結末と近代日朝関係の幕開け
この事件は、かつて日本自身がアメリカのペリー艦隊によって経験した砲艦外交(武力を背景にした恫喝外交)を、今度は日本が朝鮮に対して再現したものであった。日本政府は、衝突の原因が朝鮮側の不法砲撃にあると主張し、黒田清隆らを全権大使として朝鮮に派遣。軍事的圧力を背景に交渉を優位に進め、翌1876(明治9)年に不平等条約である日朝修好条規(江華島条約)を締結させ、朝鮮を開国へと導いた。一方、事件の主役となった雲揚は、条約締結直後の1876年10月、日本国内で発生した不平士族の反乱(萩の乱)の鎮圧に向かう途中、紀伊国(和歌山県)阿尾浦で座礁し、大破して廃船となった。