年貢半減 (ねんぐはんげん)
1868年
【概説】
戊辰戦争期に新政府軍が民衆の支持を獲得するために掲げた、年貢を半額にするという公約。旧幕府領の掌握を円滑に進めるための民心掌握策であったが、のちに新政府の財政難を理由に撤回された。
新政府の民心掌握策と「年貢半減」の布告
1868年、鳥羽・伏見の戦いに勝利した明治新政府は、東征軍を組織して旧幕府勢力の掃討と東国の掌握を目指した。しかし、新政府は樹立直後で軍事的にも政治的にも基盤が弱く、領民が旧幕府側に付くことや、各地で一揆が頻発することを最も警戒していた。そこで新政府は、民衆を味方につけるための宣伝工作として、旧幕府領の「当年分(慶応4年)の年貢を半減する」という方針(年貢半減の布告)を打ち出し、東征の先遣隊などにこれを触れ回らせた。この甘美な公約により、各地の農民は新政府軍を「官軍」として歓迎し、東征は大きな抵抗を受けることなくスムーズに進行した。
方針転換と赤報隊の悲劇(赤報隊事件)
しかし、新国家の建設や戊辰戦争の継続には多額の軍資金が必要であり、財政基盤の脆弱な新政府にとって「年貢半減」の実行は不可能であった。東征の目途が立ち始めると、新政府は財政破綻を避けるために公約の撤回を決定する。これに伴い、政府の指示通りに「年貢半減」を宣伝して進軍していた相楽総三率いる赤報隊などの草莽の義勇軍は、手のひらを返したように「偽官軍」の烙印を押された。相楽らは信州下諏訪で捕らえられて処刑され、公約は事実上闇に葬られた。この赤報隊事件(偽官軍事件)は、新政府が理想主義的な草莽の力を切り捨て、冷徹な現実的統治へと舵を切った象徴的な事件である。