平宗盛 (たいらのむねもり)
【概説】
平安時代末期の武将であり、平清盛の死後に平氏一門を率いた惣領。異母兄である平重盛の早世と父の急死という未曾有の国難の中で一門を主導し、源氏の攻勢に対して安徳天皇を奉じて都落ちを断行した。壇の浦の戦いで捕らえられ、のちに鎌倉から京都へ送還される途上で斬首された。
清盛の後継者としての重責と家督継承
平宗盛は、平清盛と正室の平時子(二位の尼)との間に生まれた。清盛の嫡男であり、文武に優れ人望もあった異母兄の平重盛が1179年に病死したこと、さらに1181年に偉大な創始者である平清盛が熱病で急逝したことにより、宗盛は不慮の形で平氏一門の棟梁(惣領)の座を継承することとなった。しかし、当時の平氏政権は、以仁王の挙兵を契機とする各地の反乱(治承・寿永の乱)や飢饉(養和の飢饉)に直面しており、極めて困難な政権運営を強いられた。
都落ちと西国での抵抗
1183年、北陸から進撃してきた木曽義仲の軍勢が京都に迫ると、宗盛は京都での抗戦を断念した。彼は安徳天皇と三種の神器を奉じ、一門を率いて本拠地である西国へと逃れる「都落ち」を断行した。大宰府や讃岐国屋島を拠点に関門海峡の制海権を握り、平氏の勢力挽回を図ったものの、源頼朝の代官として派遣された源義経らの奇襲や卓越した戦術の前に、一ノ谷の戦い、屋島の戦いで次々と敗退を重ね、次第に追い詰められていった。
壇の浦での敗北と悲劇的な最期
1185年、平氏は長門国壇の浦(現在の山口県下関市)の決戦(壇の浦の戦い)に臨んだ。この戦いで平氏の敗北が決定的となると、二位の尼や安徳天皇をはじめとする平氏一門の多くが海に入水した。宗盛も覚悟を決めて入水したものの、泳ぎが達者であったために死にきれず、息子の清宗とともに源氏の捕虜となった。のちに鎌倉へ護送されて源頼朝と対面したのち、京都へ送還される途上の近江国篠原(現在の滋賀県野洲市)にて、親子揃って斬首された。
軍記物語である『平家物語』においては、武勇に優れた兄の重盛と比較され、優柔不断で臆病な人物として描かれることが多い。しかし近年の歴史学においては、後白河法皇との困難な政治折衝や、急激な社会崩壊の中で一門の結束を維持しようと努めた、実務的で人間味のある指導者としての再評価も進んでいる。