帯方郡 (たいほうぐん)
【概説】
3世紀初頭、朝鮮半島北西部に存在した楽浪郡の南半を分割して設置された中国の地方行政機関。後漢末期に遼東の公孫氏によって創設され、のちに魏や西晋の直轄領となり、邪馬台国の卑弥呼が中国王朝へ遣使を行う際の外交的・実務的な窓口として機能した。
公孫氏による創設と東夷経略
帯方郡は、後漢末期の動乱期にあたる204年頃、遼東半島から朝鮮半島北部にかけて独立王国的な割拠を続けていた公孫康(公孫氏)によって設置された。当時、漢王朝の出先機関であった楽浪郡(現在の平壌周辺)の南部では、韓族や濊族などの在来勢力の進出により、中国王朝の支配力が低下していた。そこで公孫康は、楽浪郡の屯有県以南を分割して「帯方郡」(現在のソウル付近、または黄海道周辺とされる)を新設し、南方への統制力を強化した。これにより、朝鮮半島南部の三韓(馬韓・辰韓・弁韓)や、海を渡った日本列島の倭などの諸勢力に対する外交・交易の拠点(東夷経略の要地)が確立されることとなった。
魏の直轄化と邪馬台国の朝貢外交
238年、三国時代の魏の明帝(曹叡)は、司馬懿(宣王)を派遣して公孫氏を滅ぼした。これにより、帯方郡と楽浪郡は魏の直轄領(魏郡)となり、引き続き東夷(東方の異民族)を懐柔・管理するための最前線基地として位置づけられた。翌239年(または238年)、倭の邪馬台国の女王・卑弥呼は、難升米らを帯方郡へと派遣し、魏への朝貢を申し入れた。当時の帯方太守である劉夏は、使者を首都の洛陽まで送り届け、卑弥呼は魏の皇帝から「親魏倭王」の金印紫綬を授けられた。
卑弥呼の遣使以降も、帯方郡は倭国と魏(およびその後の西晋)を結ぶ外交ルートの要として機能し続けた。卑弥呼の後継者である台与(壱与)が朝貢した際にも、帯方郡がその仲介を担っている。中国の歴史書『三国志』の魏書東夷伝倭人条、いわゆる『魏志』倭人伝に描かれる倭国の詳細な情勢や地理的情報は、帯方郡から実際に倭国へ派遣された役人(梯儁や張政など)の復命書や見聞録がベースになっており、当時の倭人社会を知る上での最大の史料源を提供することとなった。
帯方郡の終焉と歴史的意義
4世紀に入ると、西晋が八王の乱などの内乱や北方遊牧民族の侵入によって急速に衰退し、朝鮮半島における郡県への支配力が低下した。この機に乗じて北方から急速に南下・台頭したのが高句麗である。高句麗の美川王は313年に楽浪郡を滅ぼし、翌313年(または314年)には帯方郡も高句麗(あるいはその背後に連動した百済)によって滅ぼされた。これにより、漢の武帝以来、約400年間にわたって維持されてきた中国王朝による朝鮮半島の直接支配の歴史は終焉を迎えた。
日本史における帯方郡の意義は、単なる地方行政機関にとどまらず、弥生時代後期の日本列島が東アジア国際秩序に組み込まれるための最大の「窓口」であった点にある。倭の諸国は、帯方郡を通じて中国の進んだ鉄器文化、青銅器(三角縁神獣鏡など)、さらには漢字に代表される文字文化を間接的に受容し、これが国内の階級社会の形成や、後のヤマト政権へとつながる国家形成の動きを大きく促す契機となった。