川崎宿 (かわさきしゅく)
1623年~
【概説】
江戸幕府によって整備された東海道五十三次の2番目の宿場町。多摩川(六郷川)の南岸に位置する交通・流通の要衝であり、農政家として知られる田中丘隅が名主や問屋を務めた場所。
東海道最後の宿場指定と「六郷の渡し」
川崎宿は、江戸幕府が東海道を整備した初期から存在していたわけではない。先行して成立していた品川宿と神奈川宿の間が約四里(約16キロメートル)と離れており、旅人や伝馬を出す農民の負担が大きかったため、1623(元和9)年に新たな伝馬宿として公認された。これにより、東海道五十三次の中で最後に設置された宿場町の一つとなった。
地理的には、幕府の防衛および治水上の理由から架橋が制限された多摩川下流の「六郷の渡し」を控えていた。この渡船を利用する旅人や物資で川崎宿は大いに賑わい、近隣の平間寺(川崎大師)への参詣客の増加も手伝って、江戸近郊の重要な拠点として発展していった。
田中丘隅の台頭と幕政への参画
川崎宿の名主・問屋を務めたのが、農政家として名高い田中丘隅(喜庵)である。丘隅は、伝馬役の重負担に苦しむ宿場を再建するなかで、農村や宿場の実態に即した経世済民の書『民間省要』を著した。
この実践的な農政論が8代将軍徳川吉宗の目に留まり、丘隅は幕臣(支配勘定格)へと抜擢されて享保の改革の一翼を担うこととなった。彼は多摩川や荒川の治水事業、二ヶ領用水の改修などで手腕を発揮し、地方巧者(技術官僚)として活躍した。川崎宿は、単なる交通の経由地にとどまらず、江戸中期の幕政改革を技術・理論の両面から支えた人材を輩出した地として、日本近世史において重要な意味を持っている。