小石川養生所 (こいしかわようじょうしょ)
【概説】
江戸時代中期、江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗が江戸の小石川に設立した貧困層向けの無料医療施設。町医者であった小川笙船が目安箱に投書した建白を契機として創設され、幕末までの約150年間にわたり、都市の貧民救済の拠点として機能した。
設立の背景と小川笙船の建白
江戸時代中期になると、江戸の町は人口が急増し、日雇い労働者や長屋住まいの貧困層が増加していた。彼らは病に倒れても高価な薬代や治療費を支払うことができず、十分な治療を受けられないまま行き倒れになる者も少なくなかった。このような都市問題に対し、幕府は1721年(享保6年)に評定所の門前に目安箱を設置し、庶民の声を直接政治に反映させる試みを始めた。
この目安箱に投書をしたのが、小石川に住む町医者の小川笙船(おがわしょうせん)であった。笙船は、身寄りのない病人や貧しい人々を救済するための無料の医療施設(施薬院)の設立を訴えた。第8代将軍・徳川吉宗は自らこの投書を開封して読み、その理念に深く共感して、直ちに施設創設の検討を命じたのである。
養生所の運営体制と大岡忠相の尽力
吉宗の命を受けた江戸町奉行の大岡忠相(越前守)は、設立に向けた実務と調査に取り掛かった。そして翌1722年(享保7年)、幕府の薬草園であった小石川薬園(現在の東京大学附属小石川植物園)の敷地内に、小石川養生所が開設された。初代の肝煎(施設の責任者)には、提案者である小川笙船が抜擢された。
入所対象者は、当初は「看病人がいない貧困の病人」に限定され、町名主などの身元調査を経て入所が許可された。施設内では、医師による診察や薬の処方が無料で行われたほか、食事や衣類なども支給された。幕府の財政再建の最中であったにもかかわらず、運営費用は幕府からの給付金で賄われ、後に町人からの寄付金なども運用されるようになった。
施設の実態と発展
設立当初、庶民の間では「幕府が新薬の効能を試すために病人を集めている」「人体実験をされる」といった流言飛語が飛び交い、警戒されて入所を希望する者はほとんどいなかった。これに対し、笙船や大岡忠相らは町触れを出して安全性を丁寧に周知した。実際に手厚い治療を受け、回復して市中に戻る者が出てくるにつれて次第に信頼を獲得し、やがて入所希望者が殺到するようになった。
当初は定員40名程度であったが、需要の増加に応じて施設は拡張され、最大で100名以上を収容する規模となった。医療体制も、初めは内科や外科などの漢方医が中心であったが、時代が下ると眼科などが追加され、より広範な疾患に対応できるよう整備されていった。この養生所は、1868年(慶応4年)の江戸幕府崩壊に伴い新政府軍に接収されるまで、存続し続けた。
享保の改革における歴史的意義
小石川養生所の設立は、享保の改革における社会政策の白眉として高く評価されている。吉宗の改革は、年貢増徴や質素倹約令など、民衆に負担や痛みを強いる厳しい財政再建策が目立つ一方で、民衆の不満を和らげるための施策も行われていた。小石川養生所は、目安箱という「下からの意見」を吸い上げるシステムが実際に機能し、国家(幕府)による貧困者福祉・医療救済という「上からの恩恵」として結実した稀有な事例である。
また、都市問題としての貧困や疾病に対して、為政者が直接的なセーフティネットを構築しようとした点において、日本の医療史および社会福祉史において極めて重要な画期となったのである。