富士川 (ふじかわ)
【概説】
甲斐国から駿河国を経て駿河湾に注ぐ、日本三大急流の一つに数えられる河川。江戸時代初期に京都の豪商である角倉了以によって舟路が開削された。甲斐国の年貢米(甲州米)を江戸へ送るための重要な輸送ルートとなり、近世の経済・流通において極めて大きな役割を果たした。
徳川家康の命と角倉了以による開削事業
江戸幕府が開かれた直後の慶長12年(1607年)、駿府に退いて大御所となった徳川家康は、幕府直轄領(天領)であった甲斐国(山梨県)の物資、特に年貢米を駿河経由で江戸へと効率的に輸送するため、富士川の開削を計画した。この大事業を命じられたのが、京都の大堰川や高瀬川の開削で実績のあった豪商の角倉了以(およびその子・素庵)である。
富士川は急流で知られ、水中に巨大な岩石が多く点在していたため、それまでは船の通航が不可能とされていた。了以は私財を投じ、高度な水利技術を用いて川底の岩盤を破砕し、障害物を取り除く難工事を敢行した。慶長16年(1611年)頃に舟路が完成したことで、甲斐国から駿河湾へと至る、全長約70キロメートルにおよぶ富士川水運が成立することとなった。
甲州米の江戸輸送と復路の生活物資流通
富士川水運の主たる目的は、甲斐国で徴収された年貢米(甲州米)の輸送であった。甲府盆地などから集められた米は、富士川の上流部に位置する鰍沢(かじかざわ)や青柳といった河岸(船着場)から「平田船(ひらたぶね)」と呼ばれる底の浅い川船に積まれ、急流を下って駿河国の岩淵(現・静岡県富士市)まで運ばれた。その後、陸路を経由して清水港(現・静岡市)に運ばれ、そこから千石船などの海船を用いて海路で江戸へと送られた。このルートの確立により、江戸の巨大な消費活動を支える基盤が整えられた。
また、この水運は一方通行の御用米輸送にとどまらなかった。米を運んだ後の復路(上り船)では、駿河湾で採れた塩や魚介類(干物など)、醤油や茶といった生活必需品が甲斐国へと運び込まれた。これにより、山に囲まれた甲斐国の生活水準は劇的に向上し、物流の拠点となった鰍沢などの河岸は、問屋や船頭、宿場で大いに賑わいを見せることとなった。