四公六民
【概説】
江戸時代初期における、領主と農民の間で結ばれた代表的な年貢の徴収割合。収穫された米の4割を年貢として領主(公)に納め、残り6割を農民(民)の取り分とする租税基準である。
近世初期における「四公六民」の確立と背景
織豊政権期の太閤検地を経て確立された近世の石高制のもと、江戸幕府や諸藩の領主は農民から年貢を徴収した。江戸初期に一般的であった四公六民は、戦国期の過酷な搾取を是正し、農民の生活を維持させることで農村社会の安定を図る現実的な基準として定着した。当時は新田開発が活発に行われており、実際の収穫量(実質石高)が検地帳に登録された石高(表高)を上回ることが多かったため、農民の実質的な負担は比較的緩やかであった。このことが、本百姓を中心とする自立的な農村経営を支え、初期の近世社会の安定に寄与したのである。
「五公五民」への移行と社会への影響
17世紀末から18世紀に入ると、領主財政の困窮や新田開発の限界、貨幣経済の浸透に伴い、従来の四公六民の維持が困難となった。江戸中期の徳川吉宗による享保の改革では、幕府財政の再建を目指して年貢の増徴政策が採られた。これにより、収穫高に関わらず年貢率を固定する定免法の導入が進められ、租税率は五公五民(領主5割、農民5割)へと引き上げられた。この増税は農民の生活を厳しく圧迫し、のちの飢饉の際などに大規模な百姓一揆を頻発させる要因となった。四公六民から五公五民への変遷は、江戸幕府の農政が「農民の自立維持」から「財政確保のための搾取強化」へと傾斜していった過渡期を象徴している。