古文辞学派(蘐園学派) (こぶんじがくは・けんえんがくは)
【概説】
江戸時代中期に荻生徂徠が創始した儒学の一派。後世の思想的解釈を排して古代中国の言語(古文辞)そのものを実証的に研究し、聖人の定めた客観的な制度や文物を明らかにすることで、経世済民(政治・社会救済)の道を説いた。徂徠の私塾の名から蘐園学派とも呼ばれる。
朱子学批判と古文辞学の成立
江戸時代初期から中期にかけて幕府の官学として重んじられた朱子学(宋学)は、宇宙の原理や人間の内面的な道徳(理気二元論や性即理など)を探求する形而上学的な性格を持っていた。これに対し、17世紀後半に伊藤仁斎が『論語』や『孟子』の原義に直接立ち返る古義学を提唱し、朱子学の解釈を批判した。当初は朱子学を学んでいた荻生徂徠(おぎゅうそらい)であったが、仁斎の思想に強い影響を受け、さらに時代を遡って古代中国の古典そのものを言語学的に読み解く「古文辞学」を確立した。徂徠は、朱子学による解釈は後世の憶測に過ぎず、原典の真意を歪めていると厳しく排撃したのである。
言語の歴史性と「先王の道」
古文辞学の最大の特長は、「言葉は時代とともに変化する」という歴史的言語観に基づいている点である。徂徠は、古代中国の言語(古文辞)を正確に理解しなければ、古典に記された真理は把握できないと主張した。また、仁斎が『論語』や『孟子』を重視して個人的な道徳修養を説いたのに対し、徂徠はさらに古い『六経』(詩・書・礼・楽・易・春秋)を根本経典として重んじた。
徂徠にとっての「道」とは、人間の内面的な道徳ではなく、古代中国の優れた為政者(先王)が天下を治めるために人工的に作為した客観的な制度、すなわち「礼楽刑政」であった。このように、儒学を個人の心の問題から切り離し、天下国家を治める純粋な政治学(経世済民の学)として再定義した点に、古文辞学の画期性があった。
蘐園学派の分化と門人たち
徂徠が江戸に開いた私塾「蘐園塾」には全国から優秀な人材が集まり、一大学派を形成した。徂徠の没後、学派は大きく二つの流れに分化していった。一つは政治・経済の側面(経世論)を受け継いだ流れである。代表的な門人の太宰春台(だざいしゅんだい)は『経済録』を著し、武士の商業活動や専売制の必要性を説くなど、貨幣経済の進展に対応した具体的な政策立案に貢献した。
もう一つは、古文辞を学ぶ過程で重視された中国の詩文(文学)の側面を受け継いだ流れである。服部南郭(はっとりなんかく)や祇園南海らが漢詩文の分野で江戸の文壇をリードし、武士だけでなく町人階層にも中国文学の教養を広める役割を果たした。
日本思想史に与えた多大な影響
古文辞学派が後世の日本思想史に与えた影響は計り知れない。原典の言語を実証的・文献学的に探究するという徂徠の客観的な方法論は、対象を中国の古典から日本の古典へと置き換えることで、後の国学の発展に決定的な影響を与えた。国学の大成者である本居宣長は、徂徠の極端な中国崇拝(中華思想)を批判しつつも、後世の儒教的・仏教的理屈を排して古代の言葉(古言)を明らかにするという古文辞学の学問的手法を高く評価し、自らの『古事記』研究にそのまま応用している。古文辞学派は、江戸時代の学問を中世的な思弁から近代的な実証研究へと転換させる重要な結節点であったと言える。