允恭天皇 (いんぎょうてんのう)
生没年不詳、5世紀中頃
【概説】
仁徳天皇の第五皇子とされる、5世紀中頃のヤマト政権の大王。乱れた氏姓秩序を正すために「盟神探湯(くかたち)」を実施したことで知られ、中国史書にみえる「倭の五王」の「済(せい)」に比定される人物。その治世は、王権の国内支配の強化と、積極的な大陸外交によって特徴づけられる。
『宋書』にみる倭王「済」と東アジア外交
允恭天皇は、中国の南朝の歴史書である『宋書』倭国伝に登場する「倭の五王」のうち、3番目の大王である「済」に比定されるのが通説である。『宋書』の記録によると、済は443年に南朝の宋に朝貢して安東将軍倭国王の称号を授かり、さらに451年には「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」などの軍事号を加えられた。これは、朝鮮半島南部における外交的・軍事的な優位性を中国皇帝に認めさせることで、東アジアにおける地位を高め、高句麗に対抗しようとしたヤマト政権の国際戦略を示すものである。
氏姓制度の再編と「盟神探湯」の断行
国内政治においては、拡大する政権下で豪族たちが偽りの氏(うじ)や姓(かばね)を名乗るようになり、身分秩序が著しく混乱していた。これを正すため、允恭天皇は415年(『日本書紀』による)に飛鳥の甘樫丘において「盟神探湯(くかたち)」と呼ばれる熱湯を用いた神判を断行した。熱湯に手を入れさせ、正しき者は火傷を負わず、偽りの者は大火傷を負うというこの過酷な試練により、諸豪族の氏姓の真偽を正したという。この事件は、のちの氏姓制度へとつながる豪族支配の枠組みを整え、王権の国内統制力を強化する上で重要な歴史的転換点となった。