後宇多上皇 (ごうだじょうこう)
【概説】
鎌倉時代後期から末期にかけての第91代天皇(在位1274〜1287)、および大覚寺統の長として院政を執った上皇。亀山天皇の皇子であり、持明院統と皇位を競った「大覚寺統」の実質的な祖として朝廷政治を主導した。後醍醐天皇の父であり、その院政期に実施された徳政や制度改革は、後の建武の新政の政治的基盤となった。
両統迭立の端緒と後宇多天皇の即位
後宇多天皇が即位した13世紀後半の朝廷は、第88代後嵯峨天皇の崩御後、その皇子である後深草上皇の系統(後の持明院統)と、亀山天皇の系統(後の大覚寺統)の間で、皇位継承と皇室財産(八条院領など)をめぐる激しい対立が生じていた。後宇多天皇は亀山天皇の執念により、1274年にわずか8歳で即位した。しかし、これに反発した持明院統側の働きかけや、朝廷の調停者として介入した鎌倉幕府の意向により、1287年には後深草上皇の皇子である伏見天皇(持明院統)への譲位を余儀なくされた。この政変により、両統が交互に皇位に就く両統迭立の原則が形成されることとなった。
二度の院政と大覚寺の再興
譲位後、後宇多上皇は不遇の時期を過ごしたが、1301年に第一皇子の後二条天皇が即位すると、初めての院政(政務を執る上皇としての政治)を開始した。後二条天皇の急逝により一時後退するものの、1318年に第二皇子の後醍醐天皇が即位すると再び院政を執り、朝廷政治の主導権を握った。後宇多上皇は政務の拠点として嵯峨の大覚寺を復興し、ここを院御所とした。これが「大覚寺統」という家系の呼称の由来となった。1307年には出家して無品法親王(後宇多法皇)となり、真言密教に深く帰依して大覚寺の制度や伽藍を整備するなど、宗教的な権威としても一時代を画した。
徳政の実施と「建武の新政」への橋渡し
後宇多上皇の院政期には、傾きつつあった朝廷の権威を取り戻すため、積極的な内政改革が試みられた。特に訴訟制度の整備や綱紀粛正、公事(朝廷の儀式)の再興といった徳政(理非を正す善政)が推進された。これらの政治的実践は、院近臣や実務官僚の育成につながり、のちに後醍醐天皇が目指した親政や、鎌倉幕府滅亡後の建武の新政における専制的な政治構想の土台となった。1321年に後宇多上皇は院政を停止し、後醍醐天皇による親政へと移行させた。その3年後の1324年、中条流の流行などにより58歳で崩御した。その死は、大覚寺統内部の分裂や、後醍醐天皇の討幕運動(元弘の乱)の本格化を誘発し、時代は鎌倉の終焉から南北朝合一・室町時代へと大きく動くこととなる。