今川氏
【概説】
駿河・遠江の守護大名から成長し、戦国時代の東海道に強大な領国を築き上げた有力な大名家。今川義元の代には三河まで勢力を広げて「東海道一の弓取り」と称されたが、桶狭間の戦いを契機に衰退し、戦国大名としての地位を失った。
足利氏の有力一門から駿河守護への定着
今川氏の起源は鎌倉時代に遡る。室町幕府を開いた足利尊氏と同族であり、足利義氏の長男である長氏が三河国幡豆郡今川荘(現在の愛知県西尾市)を領して「今川」を称したことが始まりである。「御所(将軍家)が絶えなば吉良が継ぎ、吉良が絶えなば今川が継ぐ」と俗称されるほど、足利一門の中でも極めて高い家格を誇った名門であった。
室町時代を通じて、今川氏は主に駿河国(現在の静岡県中部・東部)などの守護を世襲し、幕府の重鎮として活躍した。しかし、応仁の乱以降の室町幕府の権威失墜に伴い、地方の守護大名も自立を余儀なくされるようになる。今川氏もまた駿河の国人領主らを統制しながら、独自の領国支配を展開していくこととなる。
今川氏親による戦国大名化と分国法の制定
戦国大名としての今川氏の基礎を固めたのが、今川氏親(うじちか)である。氏親は叔父である伊勢宗瑞(のちの北条早雲)の軍事支援を受けながら家督騒動を勝ち抜き、駿河の支配を確立した。さらに、隣国である遠江国(現在の静岡県西部)へ侵攻し、守護の斯波氏を駆逐して遠江の平定を成し遂げた。
氏親の歴史的に特筆すべき功績は、大永6年(1526年)に制定された分国法『今川仮名目録』である。これは東国における最初期の分国法とされ、守護使不入権の否定や家臣の私闘の禁止、所領の売買・質入れの統制などを定め、幕府の権威に依存しない独自の法体系を築き上げた。これにより、今川氏は名実ともに守護大名から戦国大名への脱皮を果たしたのである。
今川義元の登場と全盛期の現出
氏親の死後、内紛(花倉の乱)を経て家督を継いだのが、今川義元である。義元は軍師・太原雪斎の補佐を受け、外交と軍事の両面で卓越した手腕を発揮した。天文23年(1554年)には、甲斐の武田信玄、相模の北条氏康と甲相駿三国同盟を結び、背後の安全を確保することに成功した。
後顧の憂いを絶った義元は西へと矛先を向け、松平氏(後の徳川氏)が治める三河国(現在の愛知県東部)を事実上の保護下に置いた。これにより、今川氏は駿河・遠江・三河の三国を支配する巨大な戦国大名となり、義元は「東海道一の弓取り」と畏怖された。また、京都の戦乱を逃れた公家や文化人を積極的に保護し、本拠地の駿府(現在の静岡市)に京風の文化を根付かせ、「東国の小京都」と呼ばれる繁栄をもたらしたことも重要である。
桶狭間の戦いと戦国大名としての滅亡
今川氏の圧倒的な栄華は、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いによって突如として終焉を迎える。尾張国(現在の愛知県西部)へ侵攻した義元は、新興勢力である織田信長の奇襲を受け、あえなく討死を遂げた。絶対的な当主を失った今川家中の動揺は大きく、これを機に三河の松平元康(徳川家康)が独立を果たし、今川氏の勢力圏は急速に縮小していった。
跡を継いだ今川氏真(うじざね)は、領国の立て直しを図ったものの、武田信玄による駿河侵攻や徳川家康の遠江侵攻を防ぎきることはできなかった。永禄12年(1569年)、遠江の掛川城を開城したことで、大名としての領国を完全に失い、戦国大名としての今川氏は滅亡した。その後、氏真自身は北条氏や徳川氏を頼って生き延び、江戸時代に入ると、今川家は幕府の儀式・典礼を司る「高家」として家名と血脈を後世に伝えた。