中山道(五街道) (なかせんどう)
【概説】
江戸幕府によって整備された五街道の一つで、江戸の日本橋から内陸の山間部を通って京都に至る幹線道路。道中には六十九次の宿場が置かれ、東海道と並ぶ東西交通の最重要ルートとして機能した。
五街道の整備と中山道のルート
1601年(慶長6年)に徳川家康が開始した伝馬制度を契機として整備された五街道(東海道・中山道・甲州道中・日光道中・奥州道中)の一つである。江戸の日本橋を起点に、武蔵、上野、信濃、美濃を経て近江の草津宿で東海道と合流し、京都に至る全長約132里(約530km)の行程であった。
道中には69の宿場(中山道六十九次)が置かれた。特に信濃国の木曽谷を通る険しい区間は「木曽路」と呼ばれており、この区間の印象の強さから、中山道全体が「木曽街道」と称されることもあった。
東海道との比較から見る特性
江戸と京都を結ぶルートとして、太平洋沿岸を通る東海道と並び称されるが、両者には明確な違いがあった。東海道は平坦な道が多く交通量も圧倒的であったが、大井川をはじめとする大河川を渡河する必要があり、長雨による「川止め」が発生すると何日も足止めを食うリスクがあった。
一方の中山道は、碓氷峠や和田峠、木曽路といった険しい山越えの難所が多く、冬期は雪に閉ざされるという厳しい自然環境にあった。しかし、大河川の渡河が少ないため旅程の遅延が起きにくく、予定通りに目的地に到着しやすいという大きな利点があった。
政治的役割と「姫の街道」
このような「予定が立てやすい」という特性から、中山道は内陸部の外様大名などの参勤交代に利用されただけでなく、朝廷から将軍家へ降嫁する皇女や公家の姫君にも好んで利用された。幕末に14代将軍徳川家茂のもとへ降嫁した皇女和宮(かずのみや)の行列が中山道を通行したことは特に有名である。
東海道の川止めによる不測の事態を避けるため、また山間部を通るため大名行列との遭遇や混雑が少なく風紀が比較的良好であったことから選ばれ、いつしか中山道は「姫の街道」とも呼ばれるようになった。
経済の発展と豊かな街道文化
中山道は単なる政治的・軍事的な交通路にとどまらず、内陸部の経済と文化の発展にも大きく寄与した。各宿場町には大名が宿泊する本陣や脇本陣、一般の旅人が泊まる旅籠が建ち並び、人馬の継立(つぎたて)を行う問屋場を中心に賑わいを見せた。美濃の紙や信濃の生糸、木曽の木材など、沿線の豊かな特産品が街道を通じて江戸や上方へ運ばれ、国内流通の動脈を担った。
また、化政文化期以降に庶民の間に旅行ブームが到来すると、渓斎英泉と歌川広重による浮世絵の連作『木曽街道六十九次』が描かれるなど、中山道の風景や宿場町の風俗は芸術の題材としても広く親しまれた。現在でも長野県の妻籠宿(つまごじゅく)や岐阜県の馬籠宿(まごめじゅく)などに当時の面影が色濃く残されており、日本の重要な歴史的景観として高く評価されている。