三井銀行
【概説】
国立銀行の設立方針転換に伴い、政商の三井組が1876(明治9)年に設立した、日本初の本格的な私立の普通銀行。官金の取り扱い業務や強固な信用力を背景に急成長を遂げ、のちの三井財閥における中核的な資金供給源となった金融機関である。
政商から近代金融への脱皮と三井銀行の設立
江戸時代以来の豪商であった三井家(三井組)は、幕末から明治維新の混乱期において新政府の資金調達(会計事務や御用金調達)を請け負うことで、政府と密接に結びついた政商として台頭した。明治政府が1872(明治5)年に国立銀行条例を制定すると、三井組は競合する小野組とともに共同で第一国立銀行(のちの第一銀行、現・みずほ銀行)の設立に関わった。
しかし、当時の国立銀行は金準備の不足などから経営が難航し、1874年に大蔵省の公金取扱規則改正によって小野組が破綻すると、三井組は単独での本格的な銀行設立を模索し始める。大蔵省が国立銀行の追加設立を一時抑制したことを契機に、三井組は1876(明治9)年7月、日本で最初の私立銀行(普通銀行)である三井銀行を創立し、自立的な金融資本としての歩みを開始した。
普通銀行としての特質と同時代の金融政策
三井銀行は、紙幣(銀行券)の発行特権を持つ国立銀行とは異なり、独自の不換紙幣の発行権を持たない「普通銀行(私立銀行)」としてスタートした。しかし、政府の公金(官金)取り扱い業務を実質的に任されていたことから高い信用力を有し、預金の吸収と貸し付け業務を中心に急速に規模を拡大した。
同年(1876年)8月には、政府が華族や士族に与えた秩禄公債を元手に国立銀行を設立できるよう国立銀行条例が改正され、全国に国立銀行が急増することとなる。この時期、三井銀行のような私立銀行と、法的に優遇された国立銀行が並存する形で日本の近代銀行制度の骨格が形成されていった。三井銀行の成功は、のちの安田銀行や住友銀行など、他の財閥系私立銀行の設立に大きな影響を与える先駆例となった。
三井財閥の中核としての発展と近代化改革
設立当初の三井銀行は、依然として政府との結びつきが強い政商的性格を残していた。しかし、明治20年代に入ると、三井家は近代的な企業集団(財閥)への移行を図るようになる。その改革を主導したのが、1891(明治24)年に三井銀行の専務理事(実質的な最高責任者)に就任した中上川彦次郎(なかみがわひこじろう)であった。
中上川は、官金取り扱い業務依存からの脱却(政商からの脱退)を推進し、不良債権の整理を徹底した。さらに、三井銀行の資金力を背景に、鐘淵紡績(カネボウ)や芝浦製作所(現・東芝)といった有望な近代的製造業への融資や直接投資を積極的に行い、三井の産業資本化を強力に牽引した。これにより三井銀行は、三井物産、三井鉱山と並ぶ三井財閥の御三家、ひいては中核金融機関として不動の地位を確立し、昭和期の巨大コンツェルン形成へとつながる基盤を築いたのである。