万福寺 (まんぷくじ)
【概説】
江戸時代初期の1661年、明の禅僧・隠元隆琦によって京都の宇治に創建された黄檗宗の大本山。当時の明朝風の建築様式や仏教儀礼を今日に伝える寺院であり、日本における中国文化(黄檗文化)の受容と展開の拠点となった。
隠元隆琦の来日と万福寺の創建
17世紀半ばの中国大陸では、明から清への王朝交替(明清交替)に伴う混乱が生じていた。こうしたなか、長崎の唐人寺(興福寺など)からの招請に応じる形で、1654(承応3)年に明の高僧である隠元隆琦(いんげんりゅうき)が来日した。当初、隠元は数年で帰国する予定であったが、その徳風を慕う日本の僧俗や、キリスト教排除を進めるなかで正統な仏教の導入を歓迎した江戸幕府の意向により、日本に留まることとなった。4代将軍徳川家綱や後水尾法皇をはじめとする幕府・朝廷の要人から篤い帰依を受けた隠元は、1661(寛文元)年に山城国宇治に寺地を寄進され、新たな寺院を創建した。これが黄檗山万福寺であり、隠元が住持を務めていた福建省の同名寺院にちなんで命名された。
明朝風の建築様式と仏教儀礼
万福寺の最大の特徴は、それまでの日本の伝統的な寺院とは大きく異なる明朝風(中国風)の伽藍配置や建築様式をそのまま残している点にある。主要な堂宇は中央の軸線上に一直線に並び、左右対称の美しい構造美を見せる。堂内の天井は蛇腹天井(黄檗天井)と呼ばれるアーチ状の板張りであり、窓には中国風の丸窓や、卍(まんじ)や崩れ崩し(くずれくずし)の格子が用いられている。また、本尊である釈迦三尊像や、布袋尊、十八羅漢像などの仏像も、明代の彫刻様式を濃厚に伝える。日々の儀礼においては、読経に当時の中国語の発音(唐音)が用いられ、木魚(現在広く使われている木魚の原型は黄檗宗がもたらしたもの)などの独特な鳴らし物が使われるなど、異国情緒にあふれた独自の仏教世界が構築された。
「黄檗文化」としての広範な影響
万福寺の創建は、単に新しい禅宗の一派(黄檗宗)が成立したという宗教的意義にとどまらず、新たな大陸文化(黄檗文化)を江戸時代の日本にもたらす大きな窓口となった。隠元とその弟子たちによって、インゲン豆、西瓜(すいか)、蓮根(れんこん)、孟宗竹(タケノコ)といった新たな食材や、大皿を囲んで食べる中国風精進料理である「普茶料理(ふちゃりょうり)」が日本へ伝えられた。さらに、煎茶を飲む風習は、のちに京都の売茶翁らを通じて独自の「煎茶道」へと発展した。美術や文学の分野においても、明風の力強い書風(黄檗風)や、明朝体と呼ばれる印刷用書体の普及、さらには独自の木版印刷技術である「一切経(鉄眼版)」の開版など、日本の学問・文化の発展に多大なる足跡を残した。