万延貨幣改鋳 (まんえんかへいかいちゅう)
【概説】
1860年(万延元年)に江戸幕府が断行した、小判の金含有量を大幅に引き下げる貨幣改鋳。開国にともなって発生した大量の金(ゴールド)の海外流出を阻止するための緊急対策であった。金流出の抑止には成功したものの、国内の貨幣流通量が急増したことで激しいインフレを引き起こし、幕末の社会混乱をさらに深める結果となった。
開港と「金流出」の発生要因
1858年に日米修好通商条約が締結され、翌1859年に横浜などの開港場で貿易が開始されると、幕府は深刻な経済問題に直面した。それが金(小判)の大量流出である。この問題の背景には、日本国内と海外における金銀比価(交換比率)の著しい不一致があった。
当時、東アジアの国際市場における金銀比価が「金1:銀15」であったのに対し、鎖国下の日本国内では「金1:銀5」と、極端な金高・銀安(金に対して銀の価値が非常に高い状態)に設定されていた。外国商人はこの歪みに目をつけ、メキシコドル(洋銀)を日本の一分銀に両替した上で、その一分銀4枚を小判1両と交換した。この小判を海外へ持ち出して上海などで銀貨に両替するだけで、元手の約3倍の銀貨を手に入れることができたのである。これにより、日本の金貨はまたたく間に海外へと流出していった。
万延小判の発行と国際水準への統合
幕府は当初、外国貨幣と同等の価値を持つ「安政二朱銀」を発行して金銀比価の調整を試みたが、ハリスらの強い抗議によってわずか1日で通用停止に追い込まれた。そこで1860年(万延元年)、大老・井伊直弼のもとで断行されたのが万延貨幣改鋳である。
この改鋳では、新しく鋳造された万延小判の量目(重さ)を、それまで流通していた天保小判の約3分の1(金含有量としては約3割強)にまで極端に引き下げた。これにより、日本の金銀比価を国際水準である「1:15」へと急速に接近させ、小判を持ち出す利ざやを失わせることで、金の海外流出を食い止めることに成功したのである。
激しいインフレの到来と幕末社会への打撃
金流出という外交上の危機は回避されたものの、この極端な改鋳は国内経済に壊滅的な打撃を与えた。幕府は、従来の天保小判1両を万延小判約3両分として通用させる「増歩(ましぶ)通用」を認めたため、国内に流通する貨幣の総額(名目貨幣量)が急増した。
さらに、貨幣価値そのものの急落と、開港にともなう物資(生糸や茶など)の品不足が重なり、国内では激しいインフレ(物価高騰)が発生した。米をはじめとする生活必需品の価格は数倍に跳ね上がり、都市の民衆や、定額の俸禄(知行)で生活していた武士階級の生活は窮乏を極めた。この経済的混乱は、幕府への不満を爆発させる契機となり、各地での世直し一揆や打ちこわしの頻発、さらには「尊王攘夷運動」の過激化を経済面から決定づけることとなった。