ヴェルサイユ体制
【概説】
1919年のヴェルサイユ条約をはじめとする諸条約によって形成された、第一次世界大戦後のヨーロッパを中心とする新しい国際秩序。アメリカ大統領ウィルソンの提唱による国際連盟の創設などを特徴とするが、日本も五大国の一角として体制の維持に深く関与した。のちのアジア・太平洋地域の秩序であるワシントン体制と並んで戦間期の国際関係を規定したが、1930年代のファシズム台頭により崩壊に向かった。
第一次世界大戦の惨禍と新秩序の模索
1914年に勃発した第一次世界大戦は、総力戦と新兵器の投入によってかつてない犠牲者を生み出した。この惨禍を二度と繰り返さないため、1919年にパリ講和会議が開催され、アメリカ合衆国大統領ウィルソンが発表した「十四カ条の平和原則」を理念的基礎とする新しい国際秩序が模索された。この会議の結果、対ドイツ講和条約であるヴェルサイユ条約をはじめ、敗戦国との間に複数の講和条約が結ばれ、これらに基づいて形成されたヨーロッパ中心の国際体制をヴェルサイユ体制と呼ぶ。
体制の特徴と内在する矛盾
ヴェルサイユ体制の最大の成果は、史上初の国際的な集団安全保障機構である国際連盟の創設である。また、東ヨーロッパにおいては「民族自決」の原則が適用され、オーストリア・ハンガリー帝国やロシア帝国から多くの国家が独立を果たした。しかし、その実態は英仏など戦勝国の帝国主義的な利害が強く反映されたものであった。敗戦国ドイツに対しては、天文学的な賠償金や過酷な領土割譲・軍備制限が課され、これが後のナチス台頭の土壌となる。さらに、提唱国であったアメリカが議会の反対により国際連盟に不参加となったことや、社会主義国家となったソヴィエト・ロシアが当初排除されたことなど、体制を維持するための基盤には最初から深刻な欠陥が存在していた。
日本の国際的地位の向上と直面した壁
日本史の観点から見ると、ヴェルサイユ体制の成立は日本の国際的地位を飛躍的に押し上げる契機となった。日英同盟を理由に参戦した日本は、戦勝国としてパリ講和会議に西園寺公望や牧野伸顕らを全権団として派遣した。その結果、山東省の旧ドイツ権益の継承や赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島の委任統治権を獲得し、国際連盟においては英・仏・伊とともに常任理事国に就任した。これにより、日本は名実ともに世界の「五大国」の一角に躍り出たのである。
一方で、日本が会議で強く主張した人種差別撤廃案は、白豪主義をとるオーストラリアなどの強硬な反対に遭い、議長を務めたウィルソンの裁定により否決された。これは、ヴェルサイユ体制が依然として欧米の白人国家を中心とするヒエラルキーのもとに成り立っていることを露呈するものであり、日本国内に欧米への不信感を植え付ける遠因ともなった。
ヴェルサイユ・ワシントン体制への展開と崩壊
ヨーロッパにおけるヴェルサイユ体制を補完する形で、1921年から1922年にかけて開かれたワシントン会議により、アジア・太平洋地域の新たな国際秩序であるワシントン体制が形成された。1920年代の日本は、幣原喜重郎に代表される協調外交を展開し、これら二つの体制(いわゆるヴェルサイユ・ワシントン体制)の枠組みの中で国際協調と軍縮路線を歩んだ。
しかし、1929年の世界恐慌の発生により、各国の経済的余裕が失われると体制は動揺し始める。決定的な打撃を与えたのは、1931年に日本が引き起こした満州事変であった。日本は1933年に国際連盟からの脱退を通告し、自らヴェルサイユ体制から離脱した。その後、ドイツもヒトラー政権下で連盟を脱退して再軍備を宣言し、1939年の第二次世界大戦勃発をもってヴェルサイユ体制は完全に崩壊したのである。