ビキニ環礁
【概説】
1954年3月、アメリカ合衆国が大規模な水素爆弾実験を実施し、日本の漁船などが被曝した太平洋マーシャル諸島に位置する環礁。冷戦下の苛烈な核軍拡競争の舞台として利用され、日本の第五福竜丸事件を引き起こしたことで、原水爆禁止運動が全国的に巻き起こる歴史的契機となった場所である。
冷戦下の核実験場への変貌
太平洋中西部のミクロネシア、マーシャル諸島に位置するビキニ環礁は、第一次世界大戦後から日本の委任統治領であったが、第二次世界大戦の終結に伴いアメリカ合衆国の信託統治下に入った。冷戦が幕を開ける中、アメリカ軍は他国から隔絶されたこの地を核兵器の実験場として選定し、1946年には原爆実験(クロスロード作戦)を開始した。これに伴い、先住の島民たちは強制的に他の島への移住を余儀なくされた。
その後、1949年にソビエト連邦が原子爆弾の実験を成功させると、アメリカのトルーマン政権は核の優位性を保つため、より破壊力の大きな水素爆弾(水爆)の開発に着手する。かくしてビキニ環礁および隣接するエニウェトク環礁は、米ソの果てしない核軍拡競争の最前線となっていった。
1954年の水爆実験「ブラボー」と死の灰
1954年3月1日、アメリカ軍はビキニ環礁において「キャッスル作戦」と呼ばれる一連の核実験を開始し、その第一弾として水爆「ブラボー(Bravo)」を炸裂させた。この水爆はアメリカの事前の予想をはるかに上回る15メガトン(広島に投下された原爆の約1000倍)という驚異的な爆発力を持っていた。
この想定外の大爆発により、大量のサンゴ礁が粉砕されて放射性物質と結びつき、白い粉状の放射性降下物、いわゆる「死の灰」となって広範囲に降り注いだ。その結果、アメリカが設定していた危険水域のさらに外側にまで放射能汚染が広がり、ロンゲラップ環礁などに住む周辺の島民や観測を行っていたアメリカ軍兵士らが深刻な被曝をすることとなった。
第五福竜丸事件と放射能パニック
この時、危険水域の東側およそ160kmの海域で操業していたのが、静岡県焼津港所属のマグロ延縄漁船「第五福竜丸」であった。船に降り注いだ「死の灰」により、23名の乗組員全員が急性放射線症を発症した。同年9月には無線長の久保山愛吉が「原水爆の犠牲者は、わたしを最後にしてほしい」という言葉を遺して死亡し、日本社会に底知れぬ衝撃を与えた(第五福竜丸事件)。
広島・長崎に続く「三度目の核被害」という事実は、日本人の中に強い恐怖と憤りを呼び起こした。さらに、第五福竜丸のみならず、当時周辺海域で操業していた何百隻もの漁船が水揚げしたマグロからも次々と強い放射能が検出され、魚の消費が激減する「放射能マグロ騒動」と呼ばれる社会的なパニックも引き起こされた。
原水爆禁止運動の高まりと歴史的意義
ビキニ環礁での被曝事件は、戦後日本における平和運動の重大な転換点となった。東京都杉並区の主婦らが中心となって始めた水爆実験反対の署名運動は瞬く間に全国へ波及し、約3200万人もの署名を集めるかつてない規模の国民的運動へと発展した。このうねりが結実し、翌1955年8月には広島市で第1回原水爆禁止世界大会が開催され、原水爆禁止日本協議会(原水協)の結成へとつながっていった。
また、この事件は日本の大衆文化にも多大な影響を与え、水爆実験で目覚めた太古の怪獣が東京を襲う特撮映画『ゴジラ』(1954年公開)が誕生する直接的な動機ともなった。
ビキニ環礁はその後も1958年まで大規模な核実験場として使われ続け、自然環境と人々の暮らしに回復困難な傷跡を残した。2010年には、核兵器の恐ろしさと冷戦時代の負の歴史を人類全体に警告し、後世に伝える「負の世界遺産」として、ユネスコの世界文化遺産に登録されている。