ヴェルサイユ条約
【概説】
1919年(大正8年)、パリ講和会議において戦勝国である連合国と敗戦国ドイツとの間で結ばれた第一次世界大戦の講和条約。日本は五大国の一つとして会議に参加し、旧ドイツ権益の継承や国際連盟への加盟を果たすなど、国際社会における「一等国」としての地位を確立した。
第一次世界大戦の終結とパリ講和会議
1914年(大正3年)に勃発した第一次世界大戦は、未曾有の総力戦となった末、1918年にドイツの降伏によって幕を閉じた。翌1919年(大正8年)、戦後処理を話し合うためにフランスでパリ講和会議が開催された。日英同盟を理由に連合国側として参戦していた日本は、西園寺公望や牧野伸顕らを全権特命大使として派遣した。
この会議において、日本はイギリス、フランス、アメリカ、イタリアとともに五大国として扱われ、最高会議を構成した。これは、明治維新以来、欧米列強に追いつくことを目標としてきた日本外交にとって、国際社会の主要プレーヤーとして認められた画期的な出来事であった。
日本の獲得権益と山東問題
ヴェルサイユ条約により、日本は第一次世界大戦中に占領したドイツの権益に関する恒久的な権利を主張した。その結果、日本は赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島の委任統治権を獲得し、さらにドイツが中国の山東半島(膠州湾など)に有していた権益の継承を認められた。
しかし、山東半島の権益譲渡は、中国(中華民国)の激しい反発を招いた。中国は日本への権益移行を不当として返還を強く求め、この対立は中国国内での大規模な反日・反帝国主義運動である五四運動を引き起こす契機となった。最終的に中国代表団はヴェルサイユ条約への調印を拒否し、日中間の火種は後の時代へと持ち越されることとなった。
人種差別撤廃案の提案と挫折
パリ講和会議において、日本が独自の外交的イニシアチブをとったのが、国際連盟規約への人種差別撤廃条項の組み込み提案であった。当時、アメリカやオーストラリアなどでは日本人移民に対する排斥運動が激化しており、日本は有色人種国家として初めて国際会議の場で人種平等を訴えたのである。
この提案は、採決において参加国の過半数の賛成を得たものの、植民地支配を維持したいイギリスや、白豪主義をとるオーストラリア、さらに国内に深刻な人種問題を抱えるアメリカのウィルソン大統領らの強い反対に遭った。議長を務めたウィルソンは「全会一致でない」という理由でこの提案を退け、日本の悲願は挫折した。この出来事は、その後の日本国内における対米感情の悪化や、欧米主導の国際秩序に対する不信感を醸成する一因となった。
ヴェルサイユ体制の成立と日本外交の転換
ヴェルサイユ条約の調印をもって、ヨーロッパを中心とする戦後の国際秩序、いわゆるヴェルサイユ体制が成立した。条約の第1編にはウィルソンの提唱による国際連盟の規約が設けられ、日本は常任理事国として名を連ねた。
大正期の日本にとって、ヴェルサイユ条約は名実ともに列強の一角に食い込んだ到達点であった。しかし同時に、アジア・太平洋地域における日本の勢力拡大はアメリカなどの強い警戒を招くことになった。そのため、この条約で構築された体制は、やがて太平洋地域における軍縮や現状維持を目指す1921年(大正10年)のワシントン会議へと接続し、日本はヴェルサイユ・ワシントン体制という両輪の国際秩序の中で、新たな協調外交(幣原外交)を模索していくことになるのである。