牧野伸顕

西園寺公望とともにパリ講和会議の全権大使として参加し、国際連盟規約への人種差別撤廃条項の明記を主張した人物は誰か?
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重要度
★★

牧野伸顕 (まきののぶあき)

1861年〜1949年

【概説】
明治から昭和初期にかけて活躍した外交官・政治家。大久保利通の次男であり、パリ講和会議に日本全権主席(実質上の代表)の一人として出席し、国際連盟規約草案に対して「人種差別撤廃提案」を行った人物。後年は宮中重臣として昭和天皇を補佐し、親英米派の立場から軍部の台頭を牽制し続けた。

薩摩閥の系譜と外交官としての台頭

牧野伸顕は1861年、薩摩藩士である大久保利通の次男として生まれた(のちに牧野家の養子となる)。若くして岩倉使節団に随行して渡米し、現地で教育を受けたことで、早くから国際的な視野と自由主義的な思考を身につけた。帰国後は外務省に入省し、日露戦争期には駐オーストリア公使として外交交渉にあたった。

戦後は政界に転じ、第1次西園寺公望内閣の文部大臣、第1次山本権兵衛内閣の外務大臣などを歴任。薩摩閥の有力な二世でありながら、藩閥の論理にとらわれず、立憲政友会などと連携して協調外交を推進するリベラルな政治家としての地位を確立していった。

パリ講和会議と「人種差別撤廃提案」

第一次世界大戦後の1919年に開催されたパリ講和会議において、牧野は全権の西園寺公望を実質的に補佐する次席全権として出席した(実質的な日本の首席代表)。この会議において、日本政府の訓令に基づき、新設される国際連盟の規約中に人種差別撤廃案を盛り込むよう提案した。

この提案は、アジア・アフリカ諸国に対する人種偏見や移民制限に苦しむ日本の立場を反映したものであった。会議での採決では多数の賛成を得たものの、議長を務めたアメリカ大統領ウィルソンが「重要議案の決定には全員一致が必要である」という異例のルールを持ち出して採択を阻み、最終的に否決された。しかし、近代の国際外交の表舞台において、人種平等の原則を公然と提起した牧野らの行動は、歴史的に大きな意義を持つものとして語り継がれている。

宮中重臣としての役割と「二・二六事件」での襲撃

大正末期から昭和初期にかけて、牧野は宮内大臣や内大臣を歴任し、昭和天皇の最側近(宮中重臣)として国政の後見人的な役割を担った。牧野は一貫して親英米派・自由主義者の立場を堅持し、政党政治の維持と協調外交を支持したため、軍部の急進派や右翼勢力からは「国際連盟と結託して国権を損なう君側の奸(天皇をたぶらかす悪臣)」として激しく敵視されるようになった。

その結果、1936年に発生した皇道派青年将校によるクーデター未遂事件(二・二六事件)において、牧野は襲撃目標の一つとなった。湯河原の滞在先を襲撃されたが、孫の麻生和子(のちの首相・吉田茂の娘)らの機転により奇跡的に難を逃れた。事件後も隠然たる影響力を保ち、太平洋戦争(大東亜戦争)中も早期講和(終戦)に向けた動きを水面下で模索し続け、戦後の日本の再出発を見届けて1949年に没した。

回顧録 上巻 (中公文庫)

激動の昭和史を歩んだ外交官が、公私にわたる秘話を克明に綴った回顧録の金字塔。

牧野財士追悼集 (MyISBN – デザインエッグ社)

志半ばで逝った気鋭の若き財士を悼み、その人柄と功績を多角的に収めた追悼の書。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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