セポイ(シパーヒー)の反乱
【概説】
イギリス東インド会社に雇われていたインド人傭兵(セポイ)の蜂起に端を発する、大規模な反英大反乱。イギリスのインド支配を揺るがし、ムガル帝国の滅亡とイギリスによるインドの直接支配(イギリス領インド帝国の成立)の契機となった事件である。
反乱の背景とインド支配体制の変革
19世紀半ば、イギリス東インド会社による過酷な徴税やキリスト教の布教活動、諸藩王国の取り潰しなどに対し、インド社会の各階層で不満が極限に達していた。1857年5月、新型小銃の紙製薬包に牛脂や豚脂(ヒンドゥー教徒・ムスリム双方の禁忌)が塗られているという噂をきっかけに、デリー近郊のメーラトで傭兵(セポイ)が反乱を起こした。反乱は旧支配層や農民を巻き込み、北インド一帯に広がるインド大反乱へと発展した。
イギリスは厳しい戦闘の末、1859年までに反乱を完全に鎮圧した。この結果、名目のみ存続していたムガル帝国は滅亡し、東インド会社も解散された。イギリスは東インド会社を通じた間接支配を改め、本国政府(国王)が直接統治する体制へと移行、1877年にはヴィクトリア女王を皇帝とするインド帝国を成立させることとなった。
幕末日本への影響とハリスの外交交渉
同時代の日本(江戸時代末期)において、このセポイの反乱(当時の日本には「印奴(インド)の乱」などとして伝わった)は、対外政策を揺るがす重大な情報として受け止められた。1856年に来日したアメリカ総領事ハリスは、日米修好通商条約の調印を江戸幕府に迫る際、このアジアの情勢を外交交渉の強力なカードとして利用した。
ハリスは、イギリスがアロー戦争(第二次アヘン戦争)で清を破り、さらに「インドの乱」を鎮圧した後は、その強大な軍事力を日本に向けてくるであろうと警告した。そして、軍事侵略を避けるためには、軍隊を派遣していないアメリカと平和的に条約を締結することが最善の策であると説いた。この「イギリス脅威論」は、大老・井伊直弼ら幕府首脳部に開国を即断させる決定的な要因となり、1858年の日米修好通商条約の無勅許調印へとつながった。世界規模での植民地化の波は、日本が鎖国から開国へと舵を切る大きな契機となったのである。