イギリス東インド会社
【概説】
1600年に設立され、アジア貿易を独占するとともにインドの植民地支配を推進したイギリスの特許会社。江戸時代初期の日本にも平戸に商館を設けて貿易を行ったが、オランダとの競争に敗れて撤退し、のちにセポイの反乱(インド大反乱)の責任を問われて1858年に解散した。
設立とアジア貿易への参入
1600年、イギリス東インド会社はエリザベス1世から東インドにおける貿易の独占権を付与された特許会社として誕生した。当初の目的は、当時ヨーロッパで莫大な利益を生んでいた東南アジアの香辛料貿易に参入することであった。しかし、現地では先行するポルトガルや、1602年に設立された強大な資本力を持つオランダ東インド会社(VOC)との激しい競争に直面することになる。
日本への進出と平戸商館の閉鎖
日本史の文脈において、イギリス東インド会社が最も直接的な関わりを持ったのは江戸時代初期である。1613(慶長18)年、司令官ジョン・セーリスがクローブ号で来日し、すでに徳川家康の外交顧問となっていたイギリス人航海士ウィリアム・アダムス(三浦按針)の仲介のもと、家康から貿易の許可(朱印状)を獲得した。これにより肥前国の平戸にイギリス商館が設立され、リチャード・コックスが商館長に就任した。
しかし、イギリスの主力商品であった毛織物は温暖な気候の日本において需要が乏しく、また先行するオランダとの激しい販売競争により商館の経営は難航した。さらに、1623年に東南アジアのモルッカ諸島で起きたアンボイナ事件でオランダ勢力に敗北したことを決定的な契機として、同年にイギリス東インド会社は平戸商館を閉鎖し、日本および東南アジアの市場から事実上撤退することとなった。
インド支配への傾斜と東アジアへの衝撃
日本や東南アジアから退いたイギリス東インド会社は、活動の拠点をインドへと移した。当初は純粋な商業組織であったが、1757年のプラッシーの戦いでフランス勢力や地元諸侯を打ち破って以降、徴税権を獲得するなど次第に領土支配を行う政治的・軍事的機関へと変質していった。
同時に、清(中国)からの茶の輸入を拡大させ、その代金決済のためにインド産のアヘンを清に密輸する三角貿易を展開した。これが1840年のアヘン戦争を引き起こす原因となる。大国である清がイギリスの近代兵器の前に大敗したという情報は、オランダ風説書などを通じてただちに江戸幕府にもたらされ、異国船打払令の撤回(天保の薪水給与令)など、幕府の対外政策を軟化・転換させる決定的な衝撃を与えた。
セポイの反乱と会社の終焉
19世紀に入ると、産業革命を達成したイギリス国内で自由貿易を求める声が高まり、東インド会社は段階的に貿易独占権を剥奪され、純粋なインドの植民地統治機関となっていた。そうした中、過酷な支配や宗教的摩擦に対する不満から、1857年に会社が雇うインド人傭兵(シパーヒー/セポイ)らによるセポイの反乱(インド大反乱)が勃発した。
イギリス本国政府は正規軍を派遣してこれを鎮圧したが、事態の重大さから東インド会社の統治能力を問題視し、翌1858年に特許状を破棄して会社を解散させた。これによりインドはイギリス政府の直接統治下に置かれることとなった。奇しくも同年、日本では江戸幕府が日米修好通商条約をはじめとする安政の五カ国条約を締結し、本格的な開国を果たしている。以後、日本に対するイギリスの外交圧力や経済進出は、特許会社を通じてではなく、ヴィクトリア女王を頂点とするイギリス帝国そのものによって強力に推し進められていくこととなる。