キューバ危機
【概説】
1962年(昭和37年)10月、ソビエト連邦が社会主義政権下のキューバに核ミサイル基地を建設していることが発覚し、アメリカ合衆国との間で全面核戦争の瀬戸際まで緊張が高まった国際的危機。米大統領ケネディとソ連首相フルシチョフの激しい駆け引きの末、ソ連がミサイル撤去に合意したことで破局は回避された。東西冷戦において世界が最も核の脅威に直面した事件であり、その後の米ソ間の緊張緩和(デタント)への転機となった。
冷戦の激化とキューバ革命
第二次世界大戦後、世界はアメリカを中心とする資本主義陣営と、ソ連を中心とする社会主義陣営による冷戦の時代を迎えていた。そのような中、アメリカの裏庭とも言えるカリブ海に位置するキューバにおいて、1959年にフィデル・カストロらが親米のバティスタ独裁政権を打倒するキューバ革命が勃発した。当初、カストロは必ずしも反米・親ソを掲げていなかったが、アメリカがキューバの農地改革等に反発して国交を断絶し、経済封鎖に踏み切ったことで、キューバは急速にソ連へと接近していくこととなった。
1961年、アメリカの支援を受けた亡命キューバ人部隊がキューバに侵攻して失敗する事件(ピッグス湾事件)が起きると、カストロは自らの政権防衛のために社会主義宣言を行い、ソ連に軍事的支援を要請した。ソ連の指導者フルシチョフは、アメリカの核ミサイルが自国の近隣であるトルコやイタリアに配備されていることへの対抗措置として、キューバに中距離弾道ミサイルを密かに配備する計画を進めたのである。
発覚から「危機の13日間」へ
1962年10月14日、アメリカのU-2偵察機がキューバ上空からミサイル基地の建設現場を撮影したことで、事態は急転直下した。報告を受けたアメリカ大統領ジョン・F・ケネディは、国家安全保障会議の特別委員会(EXCOMM)を招集し、対応を協議した。軍部からはキューバへの即時空爆や全面侵攻を求める強硬論が噴出したが、ケネディはソ連との全面核戦争に発展するリスクを回避するため、キューバ周辺の公海上でソ連船の立ち入りを検査する「海上封鎖(臨検)」という比較的穏健な措置を選択した。
10月22日、ケネディはテレビ演説を通じてキューバのミサイル基地の存在と海上封鎖の実施を世界に向けて公表し、ソ連に対してミサイルの即時撤去を要求した。これに対しソ連は強く反発し、アメリカの封鎖線に向けて貨物船団を進行させた。世界中が第三次世界大戦、すなわち人類を破滅に導く核戦争の勃発が迫っているという恐怖に包まれた。この発覚から事態収拾までの期間は「危機の13日間」と呼ばれている。
米ソの妥協と危機の回避
海上封鎖の現場では米ソ両軍が対峙し、一触即発の極限状態が続いた。しかし、水面下では両国の首脳や外交官を通じた息詰まる交渉が続けられていた。10月26日および27日にフルシチョフから送られた書簡を通じて、「キューバへの不侵攻の確約」と「トルコに配備されたアメリカのジュピター・ミサイルの撤去」を条件に、ソ連がキューバからミサイルを撤去するという妥協案が提示された。
ケネディ政権は、公式にはキューバ不侵攻のみを確約しつつ、裏面交渉においてトルコからのミサイル撤去(時期を遅らせて秘密裏に行うこと)に同意した。これにより、10月28日にフルシチョフはモスクワ放送を通じてミサイル基地の解体と兵器の撤去を指令したと発表し、世界を覆った核戦争の危機は辛くも回避されたのである。
日本への影響と冷戦構造の変容
キューバ危機が発生した1962年(昭和37年)は、日本においては池田勇人内閣の下で「所得倍増計画」が進められ、高度経済成長の只中にある時期であった。しかし、米ソの軍事的緊張は極東の日本にも直接的な影響を及ぼした。当時、アメリカの施政権下にあった沖縄(琉球列島)の米軍基地には、核弾頭を搭載したメースB巡航ミサイルが配備されており、防衛準備態勢(デフコン)は実戦の次に高い「デフコン2」にまで引き上げられ、実際に発射命令が下る寸前の状態にあったことが後年の証言で明らかになっている。また、本土の在日米軍基地も最高度の警戒態勢に入り、日本国民はメディアの連日の報道を通じて、東西冷戦の最前線に組み込まれている現実と核戦争の恐怖を肌で感じることとなった。
この事件は、首脳間の意思疎通の欠如が破局を招くという痛烈な教訓を残した。その結果、米ソ首脳間を直接結ぶ通信回線(ホットライン)が設置され、翌1963年には大気圏内外および水中での核爆発を伴う実験を禁止する部分的核実験禁止条約(PTBT)が調印された。キューバ危機は冷戦の頂点であると同時に、超大国同士が核兵器の管理と緊張緩和(デタント)へと歩み寄る歴史的な転換点となったのである。