「国民政府を対手とせず」 (こくみんせいふをあいてとせず)
【概説】
1938(昭和13)年1月16日、第1次近衛文麿内閣が発表した声明(第一次近衛声明)における最も有名な一節。蔣介石率いる国民政府との和平交渉打ち切りを内外に宣言したものであり、結果的に日本が自ら外交的解決の窓口を閉ざし、日中戦争を泥沼化させる決定的な要因となった。
日中戦争の勃発とトラウトマン工作
1937(昭和12)年7月の盧溝橋事件を契機に、日本と中国(国民政府)との間で武力衝突が発生した。当初、日本側は事態の不拡大を方針としていたが、戦火はまたたく間に拡大し、全面的な日中戦争(支那事変)へと発展していった。この際、日本の陸軍参謀本部内でも石原莞爾ら不拡大派は、対ソ連防備の観点などから中国との全面戦争を危惧しており、早期の和平決着を模索していた。
そこで日本政府は、日中双方に多大な軍事顧問団や武器輸出などの権益を持っていたドイツに仲介を依頼した。駐華ドイツ大使トラウトマンを通じた和平交渉、いわゆるトラウトマン工作が開始され、1937年11月には蔣介石側も日本側の提示した和平条件を大筋で受諾する意向を示していた。
第一次近衛声明と「対手とせず」の宣言
しかし、1937年12月に日本軍が国民政府の首都・南京を陥落させると、日本国内や軍部・政府内の強硬派が勢いづいた。戦勝気分に沸く世論を背景に、第1次近衛文麿内閣はトラウトマン工作で示していた和平条件を大幅に吊り上げ、過酷な要求を国民政府に突きつけた。蔣介石側が回答を引き延ばすと、近衛内閣はこれを「中国側に誠意なし」と断定した。
1938年1月16日、政府は「帝国政府は爾後(じご)国民政府を対手(あいて)とせず、帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立を期待し……」とする声明を発表した。これが第一次近衛声明である。この声明は、日本が蔣介石政権を中国の正統な代表と認めず、今後のいかなる交渉も拒絶するという極めて強い意思表示であった。
日中戦争の泥沼化と傀儡政権の樹立
この声明により、トラウトマン工作は完全に破綻した。「対手」を失った日本は、自らの手で外交的解決の道を閉ざしてしまったのである。蔣介石は政府を内陸の重慶に移し、アメリカ・イギリス・ソ連などからの軍事・経済支援(援蔣ルート)を受けながら、徹底抗戦の構えを崩さなかった。
自ら交渉相手を否認した日本は、声明にある「新興支那政権」の樹立を急がざるを得なくなった。その後、国民政府内の親日派であった汪兆銘(おうちょうめい)を重慶から脱出させ、1940年に南京に新たな国民政府(汪兆銘政権)を樹立させた。しかし、これは実質的に日本の傀儡(かいらい)政権に過ぎず、広く中国民衆の支持を得ることはできなかった。
自ら外交的解決の道を閉ざした歴史的失策
「国民政府を対手とせず」という方針は、日本外交史における最大の失策の一つと評価されている。近衛文麿自身も後にこの声明を出したことを深く後悔し、同年11月には「東亜新秩序」の建設を掲げる第二次近衛声明を発表し、さらに12月の第三次近衛声明(近衛三原則)で暗に蔣介石政権への歩み寄りを模索したが、時すでに遅かった。
日中戦争の終結の糸口を失った日本は、膨大な兵力と物資を中国大陸で消耗していくことになった。そして、事態打開のために東南アジア(仏印)への進出を図ったことがアメリカなどの経済制裁を招き、最終的に太平洋戦争(大東亜戦争)へと突き進んでいく直接的な原因となったのである。