第2次近衛声明
【概説】
1938年(昭和13年)11月、第1次近衛文麿内閣が日中戦争の目的を「東亜新秩序の建設」にあると発表した政府声明。泥沼化する戦争の大義名分を国内外に示し、日本の指導下によるアジアのブロック化を目指したことで、米英など欧米列強との対立を決定的なものとした。
日中戦争の長期化と声明発表の背景
1937年(昭和12年)7月の盧溝橋事件に端を発した日中戦争は、日本軍の「短期決戦で終わる」という当初の思惑から大きく外れ、泥沼の長期戦へと突入していた。1938年1月、近衛内閣は「国民政府を対手(あいて)とせず」とする第1次近衛声明を発表し、蔣介石率いる国民政府との和平交渉の道を自ら閉ざしてしまった。
その後、日本軍は1938年10月に臨時首都である漢口(武漢三鎮)と南部の要衝・広東を相次いで陥落させた。しかし、国民政府はさらに内陸の重慶へと首都を移して抗戦を継続し、事態打開の糸口は全く見えなかった。武力による全面降伏が困難であることを悟った日本政府は、戦争を継続・正当化するための新たな政治的目標と大義名分を打ち出す必要に迫られ、同年11月3日にこの第2次近衛声明を発表した。
「東亜新秩序の建設」の提唱
第2次近衛声明の最大のポイントは、日中戦争の目的を「東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設」(東亜新秩序の建設)と定義したことである。これは、日本・満州・中国(日満華)の三国が連携し、政治・経済・文化などあらゆる分野で固い結合を図るという構想であった。
日本は、これまで掲げてきた「抗日容共の国民政府の打倒」という消極的な目標から一歩踏み出し、欧米の植民地支配を排してアジア民族による共存共栄の新たな国際秩序を構築するという壮大なイデオロギーを掲げたのである。同時にこれは、日本を中心とする広域ブロック経済圏の確立を目指すものであり、後の大東亜共栄圏構想の原型とも言える考え方であった。
列強の反発と日米関係の悪化
この声明は、国際社会、特に中国大陸に多大な権益を持っていたアメリカやイギリスから激しい反発を招いた。「東亜新秩序」という名のもとでの日本による中国の独占的な支配は、1922年の九カ国条約で確認された中国における「門戸開放・機会均等」の原則を真っ向から否定するものと受け止められたからである。
アメリカは日本に対する強い警戒感を抱き、国民政府への経済的・軍事的支援(援蔣ルートの強化)を本格化させた。翌1939年には日米通商航海条約の破棄を通告するなど、第2次近衛声明は日米関係が破綻へと向かう決定的な転換点となった。
汪兆銘工作と第3次近衛声明への展開
日本は第2次近衛声明において、国民政府の中にも「新秩序の建設」に賛同する者がいれば、協力を拒まないという姿勢を示した。これは、抗戦を続ける蔣介石から国民政府内の和平派を切り崩すためのメッセージであった。
この呼びかけに呼応したのが、国民政府のナンバー2であった汪兆銘(おうちょうめい)である。近衛内閣は同年12月、汪兆銘の脱出を促すために第3次近衛声明を発表し、「善隣友好・共同防共・経済提携」からなる近衛三原則を提示した。これを契機として汪兆銘は重慶を脱出し、日本の支援のもとで1940年に南京に新たな国民政府(汪兆銘政権)を樹立することになる。しかし、中国民衆の大半は抗日戦を支持し続けたため、日本が思い描いた「東亜新秩序」が実現することはなかった。