第1次近衛声明
【概説】
1938年1月に第1次近衛文麿内閣が発表し、蔣介石率いる国民政府を交渉相手としないことを宣言した政府声明。ドイツの仲介による和平交渉を自ら打ち切り、日中戦争の長期化と泥沼化を決定づけた致命的な外交政策である。
日中戦争の勃発と和平工作の頓挫
1937年(昭和12年)7月の盧溝橋事件を契機に日中戦争が勃発すると、当初「不拡大方針」を掲げていた第1次近衛文麿内閣は、軍部の強硬論に引きずられる形で戦線を拡大させていった。同年12月、日本軍は中華民国の首都であった南京を陥落させる。この間、日本政府は同盟国ドイツの駐華大使トラウトマンを通じた和平工作(トラウトマン工作)を進め、事態の早期収拾を図ろうとしていた。
しかし、首都陥落により戦勝気分に沸く日本国内では強硬論が支配的となり、日本側は国民政府に対して過酷な和平条件を突きつけた。国民政府側が回答を引き延ばすと、これを「和平の誠意なし」と一方的に断定し、1938年1月に政府は交渉の打ち切りを決定した。
「国民政府を対手とせず」の宣言
和平交渉の打ち切りを受け、近衛文麿首相は1938年1月16日に「第1次近衛声明」を発表した。この声明の核心は、「帝国政府は爾後(じご)国民政府を対手(あいて)とせず」という一文にある。これは、蔣介石率いる国民政府を中国を代表する正統な政権としてこれ以上認めず、今後は日本に協力的な新たな中国政権(親日政権)の樹立を待ち、これと国交を調整して「新東亜」を建設するという強硬な方針であった。同時に、国民政府が抗日容共の態度を改めない限り、これを完全に撃滅するまで戦い抜くという姿勢を国内外に示したのである。
日中戦争の泥沼化と歴史的意義
この声明は、日本外交史における最大の失策の一つに数えられる。なぜなら、広大な中国大陸における最大の交戦相手かつ実質的な支配権を持つ国民政府の存在を自ら否定し、和平交渉の窓口を自ら閉ざしてしまったからである。日本側の期待に反し、蔣介石は首都を漢口、さらには奥地の重慶へと移して徹底抗戦を継続した。また、米英ソなどの連合国側による支援(援蔣ルート)も機能し続けたため、国民政府が崩壊することはなかった。
結果として、日本は出口戦略を失ったまま「終わりなき戦争」に引きずり込まれ、日中戦争の長期化・泥沼化が決定づけられた。この行き詰まりが、のちの国力疲弊と対米英関係の悪化、ひいては太平洋戦争への道を準備することとなる。
声明の軌道修正とその限界
事態の深刻さに気づいた近衛内閣は、その後方針の修正を余儀なくされる。同年11月の「第2次近衛声明」では「東亜新秩序」の建設を掲げて国民政府内の和平派への切り崩しを図り、同年12月の「第3次近衛声明(近衛三原則)」では「善隣友好・共同防共・経済提携」を条件に国民政府に再度対話の余地を残そうとした。
これに呼応した汪兆銘(おうちょうめい)が重慶を脱出し、のちに南京で親日的な新国民政府を樹立するが、大半の中国民衆の支持を得ることはできなかった。第1次声明で失われた外交的選択肢を回復することは不可能であり、一連の軌道修正は文字通りの「後の祭り」に終わったのである。