神武天皇 (じんむてんのう)
【概説】
『古事記』や『日本書紀』において、日本の初代天皇とされる伝説上の人物。日向(宮崎県)から瀬戸内海を経て東征を行い、大和地方を平定して橿原宮(奈良県橿原市)で即位したと伝えられる。
記紀神話における「神武東征」の軌跡
『古事記』および『日本書紀』(総称して記紀)において、神武天皇は天照大御神の直系の子孫(天孫)である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の曾孫にあたり、元の名を神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと)といった。彼は、西方の割拠地である日向から「東方に美地あり」として、一族を率いて東へ旅立った。これが「神武東征」である。
道中、宇佐、筑紫、安芸、吉備などを経て難波(大阪)に達したが、大和の有力豪族である長髄彦(ながすねひこ)らの激しい抵抗に遭い、一時撤退を余儀なくされる。その後、太陽(天照大御神)を背にして戦うために紀伊半島を迂回し、熊野から大和へと入るルートを選択した。この過酷な道中において、天から遣わされた八咫烏(やたがらす)の道案内や、神剣の威力などの奇跡に助けられて大和を平定。辛酉(しんゆう)の年の1月1日に大和の橿原宮において、初代天皇として即位したとされる。
歴史学から見た実在性とヤマト王権の形成
現代の歴史学および考古学においては、神武天皇の実在性は否定されている。即位したとされる紀元前660年は、日本の考古学的区分では弥生時代早期(あるいは縄文時代晩期)にあたり、統一的な王権や国家が誕生し得る社会段階ではなかったからである。この紀元前660年という年代は、中国から伝わった「辛酉(しんゆう)の年には王朝交代(革命)が起こる」という辛酉革命説に基づき、7世紀から8世紀の『記紀』編纂期に逆算して国家の起源を古く見せるために捏造されたものと考えられている。
しかし、神武東征の伝説が全くの無根拠というわけではない。考古学的には、古墳時代中期から後期にかけて、大和地方を本拠とする大王(のちの天皇)を中心としたヤマト王権が、西日本から東日本へと政治的影響力を急速に拡大し、諸勢力を統合していった歴史的プロセスを反映しているという見方が有力である。つまり、一人の英雄の事績として語られる東征伝承は、実際には複数世代にわたる大和王権の版図拡大の歴史を一つの神話的叙事詩に結晶させたものと解釈できる。
近代日本における「神武」の政治的シンボル化
明治維新以降、神武天皇は近代国家の「国民統合の象徴」として国策の中に深く組み込まれていった。明治政府は、天皇の神聖不可侵性を裏付けるために記紀神話を利用し、1872(明治5)年には、神武天皇の即位日である旧暦1月1日を太陽暦に換算した2月11日を「紀元節」という祝日に制定した(これは戦後の「建国記念の日」の起源である)。
さらに昭和初期、日本が大陸進出を進める中で、神武天皇が即位の際に発したとされる「掩八紘而爲宇」(あめのしたをおおいていえとせん)という言葉から、「八紘一宇(はっこういちう)」(世界を一つの家とする)というスローガンが作られた。この言葉は、日本の軍国主義やアジアにおける植民地支配、対外侵略を正当化するためのスローガンとして政治的・思想的に強く利用されることとなった。このように、神武天皇は古代の建国伝承にとどまらず、日本の近代ナショナリズムの形成と密接に関わり続けた人物(象徴)である。