渟足柵 (ぬたりのさく)
【概説】
飛鳥時代の大化の改新期に、現在の新潟県新潟市付近に設置された日本古代最古の城柵。東北地方の日本海側に居住していた蝦夷の平定と、律令国家による支配領域拡大のための軍事的・行政的拠点となった。
大化の改新と北進政策の端緒
645年の乙巳の変に始まる大化の改新によって、朝廷は天皇を中心とする中央集権的な律令国家の建設を急いだ。この新政権が推進した重要政策の一つが、当時「まつろわぬ民」として朝廷の支配の枠外にあった東北地方の蝦夷(えみし)に対する支配領域の拡大(北進政策)である。孝徳天皇期の647年(大化3年)、越国(こしのくに)の日本海沿岸に設置された渟足柵は、この北進政策における史上最初の具体的な軍事拠点であった。翌648年には、さらに北方に磐舟柵(いわふねのさく)が設置され、対蝦夷政策の最前線が形成されていった。
城柵の構造と「柵戸」による辺境支配
城柵とは、軍事的な要塞としての防衛機能と、周辺地域を支配する地方官庁としての行政機能を兼ね備えた、古代特有の複合施設である。渟足柵の具体的な位置は諸説あるが、信濃川や阿賀野川の河口付近にあたる現在の新潟市東区周辺に比定される説が有力である。この城柵を維持・運営するため、信濃や上野といった周辺諸国から柵戸(さくこ)と呼ばれる農民が移住させられた。柵戸らは国境の警備兵としての軍事組織に組み込まれる一方で、未開地の開墾と農耕に従事し、現地における律令支配の基盤を浸透させる役割を担った。
日本海ルートの開拓と国家形成への意義
渟足柵の設置は、単なる地方の一防衛線の確立にとどまらず、その後の日本史に大きな影響を与えた。斉明天皇期に実施された阿倍比羅夫(あべのひらふ)による大規模な蝦夷征討や、さらに北方の樺太・沿海州方面の民族とされる粛慎(みしはせ)との交渉は、この渟足柵や磐舟柵を足がかりとして日本海沿岸を北上するルートが開発されたことで可能となった。太平洋側の多賀城(宮城県)を中心とする多賀城ラインと並び、この日本海沿岸における渟足柵の設置は、古代日本が北方へと「国境」を押し広げ、領域国家としての形を整えていくプロセスを示す重要な道標である。