壬申の乱

重要度
★★★

壬申の乱 (じんしんのらん)

672年

【概説】
672年、天智天皇の死後に発生した古代日本最大の内乱。天皇の弟である大海人皇子と、天皇の子である大友皇子が皇位継承をめぐって武力衝突に至った事件である。この戦いを制した大海人皇子が天武天皇として即位し、強力な天皇中心の律令国家建設を推進していくための画期となった。

白村江の戦いと天智天皇の急進的政策

壬申の乱の根本的な原因を理解するためには、その前段にあたる天智天皇(中大兄皇子)の時代状況を概観する必要がある。663年、日本は百済復興を支援して朝鮮半島に出兵したが、唐・新羅の連合軍に大敗を喫した(白村江の戦い)。この国家存亡の危機に直面した天智天皇は、国防体制の強化と急進的な国家改造に着手した。

防人や烽(とぶひ)の設置、水城や古代山城の築造に加え、大和国から防衛上有利な近江大津宮へと遷都を断行。さらに日本初の全国的な戸籍である庚午年籍を作成して民衆の把握に努めた。しかし、こうした唐突な遷都や氏姓の厳しい統制、過酷な軍事負担は、在地豪族や民衆に多大な不満と疲弊をもたらしており、近江朝廷に対する反発が静かに鬱積していたのである。

皇位継承問題の表面化と吉野下り

当時の皇位継承は、天皇の兄弟に受け継がれる「兄弟継承」が有力な慣格であった。そのため、天智天皇の同母弟であり、ともに大化の改新以来の政治を主導してきた大海人皇子が最有力な後継者と見なされていた。しかし、晩年の天智天皇は、自らの子である大友皇子への皇位継承(父子継承)を望むようになる。671年、大友皇子が太政大臣に任命され、彼を中心とする新たな政治体制が固められた。

自身の生命に危険が迫っていることを察知した大海人皇子は、天智天皇から後継者になるよう打診された際、病気を理由にこれを固辞した。そして自ら出家して僧侶となり、大和国の吉野(現在の奈良県吉野町)へと隠遁することで、皇位への野心がないことを示して近江朝廷の警戒を解こうとした。

挙兵と東国軍の動員

671年末に天智天皇が崩御すると、近江朝廷(大友皇子側)は吉野への食糧輸送を制限し、武器を集めるなど、大海人皇子への圧迫を強めた。これに対して672年6月、大海人皇子はついに挙兵を決断する。彼の最大の勝因は、迅速な軍事的判断であった。大和を脱出した大海人皇子は、東国(現在の東海・関東地方)への交通の要衝である美濃国(岐阜県)の不破の関をいち早く封鎖したのである。

これにより、近江朝廷は東国の兵力を動員する手立てを失った。逆に大海人皇子は、天智天皇の強権政治に不満を持っていた東国や美濃、尾張の豪族たちを味方につけ、数万規模の大軍を編成することに成功した。一方の近江朝廷側は、諸国へ動員令を出したものの思うように兵が集まらず、指揮系統も混乱を極めた。

戦局は大海人皇子軍の圧倒的優位で進み、7月に近江国の瀬田川の戦いで近江朝廷軍は壊滅。大友皇子(後の弘文天皇)は山前(やまさき)で自害し、約1ヶ月に及んだ内乱は大海人皇子の勝利で幕を閉じた。

天武天皇の即位と天皇専制の確立

勝利した大海人皇子は、翌673年に飛鳥の飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で即位し、天武天皇となった。壬申の乱が日本古代史において極めて重要な意義を持つのは、この内乱によって旧来の有力な中央豪族が近江朝廷側として敗死・没落し、天皇の権力を制限する勢力が一掃された点にある。

強力な専制権力を手にした天武天皇は、大臣を置かず、皇族のみを要職に就ける皇親政治を展開した。さらに、八色の姓(やくさのかばね)を制定して豪族の身分秩序を天皇中心に再編し、飛鳥浄御原令の編纂や国史(『古事記』『日本書紀』)の編纂事業を開始するなど、天皇を頂点とする中央集権的な律令国家の形成を強力に推し進めた。壬申の乱は、単なる権力闘争にとどまらず、日本が本格的な古代国家へと飛躍するための決定的な転換点であったと言える。

持統天皇-壬申の乱の「真の勝者」 (中公新書 2563)

華やかな万葉歌の裏に隠された政治的実像と、冷徹なまでの権力継承術を解き明かす、古代史の深淵に触れる一冊。

壬申の乱を読み解く (歴史文化ライブラリー 284)

古代最大の内乱がもたらした政変の全貌を多角的な視点から考察し、古代国家成立の軌跡を論理的に解き明かす必読の書。

日本史一問一答(ランダム)

Q. 寺院において、釈迦の遺骨(仏舎利)を納めるために建てられた、五層の屋根を持つ塔を何というか?
Q. 壬申の乱の勝利者であり、八色の姓の制定や富本銭の鋳造など、天皇の権力を絶対的なものとする中央集権化を進めた天皇は誰か?
Q. 『日本書紀』などの日本の史料において、朝鮮半島南部の加耶諸国一帯を指して用いられた呼称は何か?