閥族打破・憲政擁護
【概説】
大正初期に起きた第一次護憲運動において、立憲政友会や立憲国民党などが掲げた政治スローガン。薩摩・長州出身者を中心とする特権的支配(藩閥)を打ち破り、大日本帝国憲法に基づく議会中心の政治(政党内閣)の実現と擁護を目指した。都市部の民衆やジャーナリズムの圧倒的な支持を集め、大正デモクラシーの原動力となった。
スローガン誕生の背景――陸軍の横暴と第3次桂太郎内閣
1912(大正元)年末、第2次西園寺公望内閣(立憲政友会)は、緊縮財政の観点から陸軍が強く求めていた二個師団増設要求を拒否した。これに対し、陸軍大臣の上原勇作が帷幄上奏権を行使して単独辞任し、後任の陸相を出さなかったため、西園寺内閣は総辞職に追い込まれた。当時の軍部大臣現役武官制を逆手に取った陸軍の横暴は、国民の強い反発を招くこととなった。
さらにその後、元老会議の推挙により、長州閥・陸軍出身の桂太郎が第3次内閣を組閣した。桂は直前まで天皇の側近である内大臣兼侍従長を務めており、天皇の詔勅を利用して政界に復帰したことは「宮中・府中の別(天皇の側近と行政府の分離)」を乱すものとして非難を浴びた。このような藩閥と軍部の専横に対し、立憲主義の危機を覚えた政治家や言論人が立ち上がったのである。
「閥族」の独占と「憲政」の危機
このスローガンにおける「閥族」とは、明治維新以来、政治・官僚・軍部の要職を長きにわたり独占してきた薩摩・長州出身者を中心とする特権的集団(藩閥)を指している。彼らは元老として非公式に首相の推奏権を握り、時には軍部と結託して、議会(国民の代表)の意向を無視した政治を行っていた。
これに対して「憲政擁護」は、大日本帝国憲法の精神に立ち返り、国民の代表で構成される帝国議会を中心とした政治(政党政治)を実現し、防衛しようという主張である。立憲政友会の尾崎行雄や立憲国民党の犬養毅らは、この「閥族打破・憲政擁護」を合言葉に、藩閥政治の時代遅れな体質を激しく非難し、立憲政治の正常な発展を訴えかけた。
運動の激化と大正政変
「閥族打破・憲政擁護」のスローガンは、単なる政治家同士の権力闘争の枠を超え、都市部の新中間層や民衆の間に急速に浸透していった。新聞や雑誌などのジャーナリズムも桂内閣を厳しく批判し、全国各地で護憲大会が開かれるなど、運動は空前の大衆運動へと発展した。
1913(大正2)年2月、議会において尾崎行雄が桂首相に対し「玉座をもって胸壁となし、詔勅をもって弾丸に代えて政敵を倒そうとするもの」と痛烈な弾劾演説を行った。議事堂の外には数万の民衆が押し寄せて包囲し、警察との激しい衝突も起きた。事態の収拾が不可能と悟った桂内閣は、組閣からわずか53日で総辞職に追い込まれた。この一連の出来事は大正政変と呼ばれている。
歴史的意義――大正デモクラシーの幕開け
「閥族打破・憲政擁護」を掲げた第一次護憲運動は、日本政治史において極めて重要な転換点となった。それは、明治期において絶対的な権力を持っていた藩閥政府に対し、政党・メディア・民衆が一体となって実力で内閣を倒した初の事例であったからである。
この運動の成功は、世論と民衆の力で政治を動かすことができるという手応えを国民に植え付けた。このスローガンの下で燃え上がった民衆の政治意識は、やがて吉野作造が提唱する「民本主義」の受容や、普通選挙期成運動などへと接続し、大正時代を通じて開花する大正デモクラシーの力強い原動力となったのである。