山東半島
【概説】
中国東部の黄海と渤海を分けるように突き出た半島。19世紀末よりドイツの勢力圏(膠州湾租借地など)となっていたが、第一次世界大戦に乗じて日本軍が攻撃・占領した地域である。その後の権益継承と返還をめぐる「山東問題」は、大正期の日中関係や国際秩序に多大な影響を及ぼした。
列強の中国分割とドイツの進出
日清戦争後の1890年代後半、帝国主義列強による中国分割が激化するなか、ドイツ帝国は1897年に起きた宣教師殺害事件を口実に山東半島へ出兵した。翌1898年、清朝に圧力をかけて半島の南岸にある膠州湾を99年間の期限で租借する条約を結んだ。
ドイツは膠州湾一帯を拠点として青島(チンタオ)に強力な要塞や近代的な港湾を建設し、さらに内陸の済南に至る膠済鉄道の敷設権や沿線の鉱山採掘権を獲得した。これにより、山東半島全域は事実上ドイツの勢力圏に組み込まれ、東アジアにおけるドイツ帝国主義の一大拠点となったのである。
第一次世界大戦と日本の軍事占領
1914年(大正3年)に第一次世界大戦が勃発すると、第2次大隈重信内閣は日英同盟の情誼を理由にドイツに対して宣戦布告を行った。日本の真の狙いは、ヨーロッパの列強が本国の戦争にかかりきりになっている隙を突き、東アジアにおけるドイツの拠点を奪取して中国大陸での権益を拡大することにあった。
同年秋、日本軍は山東半島に上陸してドイツ軍を攻撃し、激戦の末に青島要塞を陥落させた(青島の戦い)。さらに日本は膠州湾租借地のみならず、膠済鉄道やその沿線の鉱山など、ドイツが山東省内に有していたあらゆる権益を軍事占領下に置いた。
二十一カ条の要求と「山東問題」の発生
占領の既成事実を作った日本は、1915年(大正4年)1月、中華民国の袁世凱政権に対して二十一カ条の要求を突きつけた。その第1号が「ドイツが山東省に有する一切の権利・権益を日本が譲り受けることを中国が承認すること」であった。
日本の強圧的な要求に対し、中国国内では激しい排日・反日運動が巻き起こった。最終的に中国側は日本の最後通牒に屈して要求の多くを受諾したものの、この強引な外交姿勢は中国民衆の民族意識を強く刺激した。同時に、中国市場の門戸開放を唱えるアメリカをはじめとする列強の警戒を招き、一連の権益をめぐる対立は「山東問題」として国際的な懸案事項となっていった。
パリ講和会議からワシントン体制への帰着
1919年(大正8年)のパリ講和会議において、日本は英仏などとの事前の秘密協定を背景に山東権益の継承を主張し、ヴェルサイユ条約でこれが承認された。しかし、これに激怒した中国民衆によって巨大な反帝国主義運動である五・四運動が勃発し、中国代表団は講和条約の調印を拒否する事態に至った。
その後、第一次世界大戦後の新たな国際秩序(ワシントン体制)を構築する動きのなかで、アメリカの仲介により1921年から開催されたワシントン会議の折に日中両国で直接交渉が行われた。その結果、1922年に「山東懸案解決に関する条約」が結ばれ、日本は膠州湾租借地を中国に返還し、膠済鉄道も買収される形で中国側に引き渡すこととなった。
これにより大正期の山東問題は法的には一応の決着を見たが、山東半島はその後も日本の大陸政策の焦点であり続けた。昭和初期の蔣介石による北伐に際しては、居留民保護を名目とした複数回にわたる山東出兵(済南事件など)の舞台となるなど、近代日中関係史において極めて重要な意味を持つ地域であった。