大覚寺統

両統迭立において、亀山天皇の血統からなり、主に八条院領を経済基盤とし、後醍醐天皇を出してのちの南朝へとつながる皇統は何か?
カテゴリ:
重要度
★★★

【参考リンク】
大覚寺統(Wikipedia)

大覚寺統 (だいかくじとう)

1259年〜1392年

【概説】
鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて、持明院統と対立した皇室の系統。
亀山天皇を祖とし、その離宮であった大覚寺を拠点としたことに由来する。
のちに後醍醐天皇を輩出して鎌倉幕府を打倒し、南北朝分裂期においては南朝(吉野朝)を形成した。

皇統分裂の背景と大覚寺統の成立

鎌倉時代中期の後嵯峨天皇は、長男の後深草天皇に譲位して院政を開始したが、のちに後深草を退位させ、自身が寵愛する次男の亀山天皇を即位させた。後嵯峨上皇は1272年に崩御する際、次代の治天の君(皇室の事実上の当主)を指名せず、その決定を鎌倉幕府に委ねた。幕府は亀山天皇の親政を支持し、やがて亀山が上皇として院政を敷くこととなった。

亀山上皇は京都の嵯峨に営んだ離宮・大覚寺を拠点としたため、彼を祖とする血統は「大覚寺統」と呼ばれるようになった。一方、皇位を奪われる形となり不満を抱いた後深草上皇の血統は、その御所にちなんで「持明院統」と呼ばれた。ここに皇室は、長きにわたる二大陣営へと分裂することとなったのである。

両統迭立と鎌倉幕府の介入

大覚寺統と持明院統は、皇位継承権とそれに伴う巨大な皇室領(大覚寺統は八条院領を継承)の相続を巡って激しく対立した。事態の収拾を図るため、鎌倉幕府は両統から交互に天皇を出す両統迭立(りょうとうてつりつ)の原則を提示し、調停に乗り出した。

この結果、大覚寺統からは後宇多天皇(亀山の子)、後二条天皇(後宇多の長男)などが即位したが、幕府による皇位への介入は常に不満の火種を抱えていた。さらに、大覚寺統の内部でも問題が発生する。早世した後二条天皇の嫡男である邦良親王の系統と、邦良が成人するまでの中継ぎとして即位した後醍醐天皇(後宇多の次男)の系統との間で争いが生じ、皇位継承問題は極めて複雑な様相を呈していった。

後醍醐天皇の登場と建武の新政

本来、大覚寺統の傍流にすぎなかった後醍醐天皇は、自らの直系子孫へ皇位を継承させることを強く望み、幕府が主導する両統迭立の原則や大覚寺統内の嫡流(邦良親王流)を打破しようと画策した。

後醍醐天皇は、自らの権力基盤を強化するためには、干渉を繰り返す鎌倉幕府を打倒し、天皇親政を実現する必要があると考えた。正中の変や元弘の乱といった数度の倒幕運動の末、悪党や新興武士層の力を結集して1333年に鎌倉幕府を滅亡に追い込み、建武の新政を開始した。これは大覚寺統の一君主が、全国の武士や寺社を統制する絶対的な専制君主へと飛躍しようとした歴史的転換点であった。

南北朝の分裂と合一

しかし、建武の新政は恩賞の不公平や急進的な政策により武士層の不満を招き、わずか数年で崩壊した。離反した足利尊氏が京都を制圧して持明院統の光明天皇(北朝)を擁立すると、後醍醐天皇は三種の神器を奉じて大和国の吉野へ逃れ、自らの正統性を主張して南朝を樹立した。これにより、大覚寺統は南朝、持明院統は北朝として、約60年にわたる南北朝時代の動乱が始まった。

大覚寺統(南朝)は、九州や東北などに皇子を派遣して全国的な反幕府勢力の結集を図ったが、次第に足利氏の室町幕府(北朝方)に対して劣勢となっていった。最終的に1392年、室町幕府第3代将軍・足利義満の斡旋により、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇(持明院統)に三種の神器を譲渡する形で、南北朝合一(明徳の和約)が成立した。

合一の条件には、再び両統迭立を行うことが含まれていたが、幕府によって反故にされ、以後皇位が大覚寺統に戻ることはなかった。これに反発した大覚寺統の遺臣たちは「後南朝」として15世紀半ばまで抵抗を続けたが、やがて歴史の表舞台から姿を消すこととなった。

天皇の歴史4 天皇と中世の武家 (講談社学術文庫 2484)

武家政権の台頭と天皇の権威がいかに拮抗し、変容を遂げたのかを辿る中世史の決定的な一冊。

中世王権と支配構造

中世社会の統治秩序を支えた重層的な支配構造と、権力の変遷を緻密に分析した歴史学の精華。

最終更新:2026年6月20日 @ 14:54

日本史一問一答(ランダム)

Q. 現在の長野県にあたり、多くの国人が割拠していたが武田信玄が侵攻・平定し、上杉謙信との争いの舞台となった国はどこか?
Q. 慶滋保胤が著した随筆で、平安時代中期の京都の荒廃した様子や、右京が衰退していく状況などが記されている作品は何か。
Q. 白磁の釉薬の上に赤・緑・黄・青などの絵の具で文様を描き、再度焼き付ける上絵付の技法(色絵)を特に何というか。