東勝寺合戦 (とうしょうじがっせん)
1333年
【概説】
1333年(元弘3年)、新田義貞の軍勢に鎌倉を攻め込まれた北条高時ら一族が、鎌倉の東勝寺で集団自害した元弘の乱の最終決戦。これにより、源頼朝以来、約150年間にわたって続いた鎌倉幕府が名実ともに滅亡した。
鎌倉急襲と東勝寺への退却
後醍醐天皇の綸旨に応じて上野国(群馬県)で挙兵した新田義貞は、鎌倉街道を南下しながら幕府軍を撃破し、鎌倉へと迫った。鎌倉の地勢は三方を山に囲まれ、一方が海に面する天然の要害であったため、新田軍は切通しと呼ばれる極楽寺坂や巨福呂坂などの突破に苦戦した。しかし、新田義貞が稲村ヶ崎の海岸線を突破して鎌倉市街地へ乱入すると、幕府軍の防衛線は一気に崩壊した。追い詰められた幕府の事実上の最高権力者・北条高時や金沢貞顕ら北条一族と、その家臣たちは、北条氏の菩提寺であった東勝寺へと退却した。
北条一族の滅亡と中世の転換点
東勝寺に追い詰められた北条高時らは、もはや防戦不可能と悟り、堂宇に火を放って次々と割腹自刃した。軍記物語『太平記』によれば、このとき自害した北条一族や臣下は長崎高資らを含めて800余人に及んだとされる。この東勝寺合戦による北条氏宗家の滅亡により、東国の武家政権であった鎌倉幕府は崩壊した。この出来事は、後醍醐天皇による建武の新政、ひいては足利尊氏による室町幕府の樹立(室町時代)へとつながる大きな歴史的画期となった。