武者所 (むしゃどころ)
【概説】
鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇によって開始された建武の新政において、京都に設置された軍事・警察機関。京都の治安維持や武士の統制、内裏の警備などを担い、新田義貞がその最高責任者である頭人(とうにん)を務めた。
建武の新政と武者所の設置背景
1333年、足利尊氏や新田義貞らの活躍によって鎌倉幕府が滅亡すると、隠岐から帰還した後醍醐天皇による親政、すなわち建武の新政が開始された。後醍醐天皇は天皇専制の理想を掲げ、従来の摂政・関白や幕府(武家政権)を排した新しい政治体制を模索した。その中で、急速に拡大する武士勢力を組織化し、旧来の秩序が崩壊して混乱する京都の治安を維持するために設置されたのが武者所である。武者所は、朝廷の軍事力を象徴する機関であると同時に、新政権に臣従した武士たちを再編・統制する役割を担っていた。
組織の構成と新田義貞の役割
武者所の実質的な最高責任者である「頭人」には、鎌倉攻めの最大の功労者である新田義貞が任命された。頭人のもとには、複数の「寄人(よりうど)」や「番頭(ばんがしら)」が配され、組織的な警備体制が敷かれた。武者所には、足利氏の一族をはじめ、新政権に帰順した多くの東国武士や西国の武士が組織され、六番制による内裏の警備(内裏番役)や、京中での違法行為の取り締まりに従事した。これは、鎌倉幕府における侍所や、かつて院政期に院の警護にあたった北面武士・西面武士の機能を踏襲・融合したものであった。
朝廷と武士の摩擦、および終焉
武者所は新政権の武力的基盤として期待されたが、その運営は容易ではなかった。後醍醐天皇による個別の人事や恩賞の不公平感から、武者所に組織された武士たちの間には不満が鬱積していった。さらに、治安維持を担当しながらも、京中での武士の狼藉や土地をめぐる紛争を完全に抑制することはできず、公家社会からもその実効性を疑問視された。1335年、足利尊氏が中先代の乱を契機に建武政権から離反すると、新田義貞率いる武者所の軍勢はこれに対抗したが、最終的に1336年の政権崩壊とともに、武者所もその歴史的役割を終えた。武士を統制する役割は、のちに成立した室町幕府の侍所へと受け継がれていくこととなる。