恩賞方

建武の新政において、討幕の功労者に対する土地などの分配・処理を担当した機関は何か?
カテゴリ:
重要度
★★★

【参考リンク】
恩賞方(Wikipedia)

恩賞方

1333年 – 1336年

【概説】
1333年(元弘3年)に始まった建武の新政において、鎌倉幕府打倒に功績のあった武士や公家、寺社に対して恩賞(土地など)を配分するために設置された機関。後醍醐天皇の親政下で重要な役割を担うはずであったが、恩賞処理の遅れや不公平が武士たちの強い不満を招き、建武政権崩壊の一因となった。

建武の新政と恩賞方の設置

1333年(元弘3年)、鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇は、武家政治を否定し、天皇への権力集中を目指す建武の新政を開始した。この新政権において、政務の中枢を担う記録所や、所領訴訟を処理する雑訴決断所などとともに設置されたのが恩賞方である。恩賞方はその名の通り、討幕の戦乱で功績を挙げた者たちへの論功行賞を行い、没収した旧幕府領や北条氏の所領などを恩賞として配分・給付することを目的としていた。恩賞方には、討幕の功臣である名和長年や楠木正成をはじめとする天皇の側近たちのほか、実務に長けた旧幕府の実務官僚などが職員として登用された。

恩賞処理の混乱と「綸旨万能」の弊害

討幕に参加した武士たちにとって、命懸けの軍役に対する見返りである恩賞(所領の獲得)は最大の関心事であった。しかし、恩賞方の事務作業は全国から殺到する膨大な数の恩賞請求に対して全く追いつかず、処理は著しく停滞した。さらに事態を悪化させたのが、後醍醐天皇による「綸旨(りんじ)」万能の政治である。天皇の命令書である綸旨が絶対的な効力を持っていたため、恩賞方における所定の手続きを踏まず、天皇の側近を通じて直接恩賞を求める者が続出した。その結果、恩賞方の頭越しに綸旨が乱発され、一つの土地が複数の者に与えられてしまうなど、所領の給付をめぐる深刻な混乱が生じたのである。

不公平な恩賞と建武政権の崩壊

恩賞方の機能不全に加えて、恩賞の配分内容自体も武士たちの怒りを買うものであった。後醍醐天皇は、自身の寵臣である公家や、建武政権を思想的に支えた寺社に対して広大な土地を優先的に与えた。一方で、実際に戦場で血を流して戦った地方の武士たちに対する恩賞は極めて不十分であり、中には多大な犠牲を払いながら恩賞を全く得られない者も少なくなかった。このような「公家高・武家低」の不公平な恩賞処理は、武家社会の根幹である「御恩と奉公」の論理を根本から揺るがすものであった。この結果、新政権に対する武士階級の不満と失望は頂点に達し、これがのちに足利尊氏が建武政権から離反し、わずか3年で新政が崩壊する最大の要因の一つとなった。恩賞方の失敗は、武士の現実的な欲求を理解できなかった建武政権の限界を如実に示している。

鎌倉幕府法 (中世法制史料集 1)

御成敗式目の制定から幕府の統治機構まで、中世の法秩序を読み解く貴重な史料集。

詳説日本史図録

教科書『詳説日本史』の内容を、豊富な写真や図解、地図でビジュアル化した超定番の図録。文字だけでは理解しにくい歴史の流れや文化財のディテールが視覚的に頭に入る。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

日本史一問一答(ランダム)

Q. 豊臣秀吉が、御前帳(検地帳)とともに各大名に作成・提出させた国ごとの詳細な地図を何というか?
Q. 律令制の位階で、この位以上になると「公卿」と呼ばれ、国政の最高幹部として扱われたのは第何位か?
Q. 旧石器時代の人々が移動生活を送る中で、一時的な住まい(キャンプ地)や雨風をしのぐ場所として利用した自然の地形は何か?