成良親王 (なりよししんのう)
1326年〜1344年
【概説】
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての皇族で、後醍醐天皇の皇子。建武の新政において足利直義に奉じられ、鎌倉将軍府の将軍として東国統治の象徴となった人物である。
鎌倉将軍府の設置と東国支配
1333年の鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇は親政である建武の新政を開始し、新たな地方統治機関を模索した。その結果、東北地方の統治のために義良親王(のちの後村上天皇)と北畠顕家を陸奥国へ派遣(陸奥将軍府)したのに並行し、関東地方の不穏な情勢を鎮めるため、幼少の成良親王を鎌倉将軍府の長(将軍)として鎌倉へ派遣した。この親王を補佐する実務担当者(執権)として同行したのが、足利尊氏の弟である足利直義であった。この体制は、後醍醐天皇による中央集権化の意志を示すと同時に、関東に強い基盤を持つ足利氏の勢力を現地に埋め込むという、政治的な妥協の産物でもあった。
南北朝の動乱と悲劇的な最期
1335年、北条氏の遺領奪還を目指す北条時行らが起こした中先代の乱により鎌倉が一時占領されると、成良親王は足利直義に奉じられて京都へ帰還し、鎌倉将軍府は事実上崩壊した。その後、足利尊氏が建武政権に叛旗を翻して持明院統の光明天皇を擁立すると、後醍醐天皇(大覚寺統)との和平協調のポーズを示すため、成良親王が一時的に皇太子に立てられた。しかし、後醍醐天皇が吉野へ脱出して南朝を樹立した(南北朝の分裂)ことでこの調停案は破綻し、親王は皇太子を廃されて幽閉の身となった。最期は足利氏によって毒殺されたとも伝えられており、室町幕府創設期における政治の激変に翻弄された悲劇的な生涯を終えた。