和田義盛
【概説】
鎌倉幕府の草創期を支えた有力御家人であり、軍事・警察を担う侍所の初代別当。源頼朝の挙兵から平家追討、奥州合戦などで数々の武功を挙げた。頼朝の死後は北条氏の台頭によって次第に追い詰められ、建暦3年(1213年)の和田合戦で北条義時に敗れ、一族とともに滅亡した。
源頼朝の挙兵への参加と侍所別当への就任
相模国三浦半島の有力武士である三浦氏の一族として生まれる。祖父は三浦義明、父は杉本義宗である。治承4年(1180年)、源頼朝が伊豆国で平家打倒の挙兵をすると、和田義盛は三浦一族とともにかねてからの結びつきによりいち早くこれに呼応した。石橋山の戦いの敗戦に伴う衣笠城合戦などで一時的に苦境に立たされたものの、安房国へと逃れた頼朝と合流してその勢力挽回に大きく貢献した。
同年、頼朝が本拠地を鎌倉に構えると、御家人の統率や軍事・警察を統括する新機関である侍所が設置され、義盛はその初代別当(長官)に任命された。これは、彼の武勇の誉れ高さと、相模国の有力水軍を擁する三浦・和田一族の強大な軍事力が、頼朝に高く評価された結果であった。
幕府草創期の武功と宿老としての地位
侍所別当となった義盛は、御家人たちの軍事指揮官として平家追討に赴き、源範頼の軍に従って一ノ谷の戦いや葦屋浦の戦いなどで活躍した。さらに文治5年(1189年)の奥州合戦でも武功を挙げ、鎌倉幕府の権力基盤の確立に最前線で寄与した。頼朝からの信任は極めて厚く、幕府の軍事面における重鎮として確固たる地位を築いた。
正治元年(1199年)に頼朝が急死し、第2代将軍・源頼家が就任すると、幕政の専断を防ぐために設けられた十三人の合議制に名を連ねる宿老の一人となった。
北条氏との対立と巧妙な挑発
頼朝の死後、幕府内では北条時政・北条義時父子による有力御家人の排斥が相次いで引き起こされた。梶原景時の変、比企能員の変、畠山重忠の乱などにおいて、義盛は北条氏に協力するか静観する立場をとっていたが、北条氏の独裁体制が強化されるにつれて、幕府内における最大級の軍事力を持つ和田・三浦一族は、義時からの最大の警戒対象へと変わっていった。
建暦3年(1213年)、信濃国の武士である泉親衡が第2代将軍頼家の遺児・千寿丸を擁立して北条氏打倒を企てた事件(泉親衡の乱)が発覚する。この企てに義盛の息子や甥の胤長が連座していたことが、義盛の運命を決定づけた。義盛の必死の懇願により息子たちは赦免されたものの、胤長は許されず流罪となり、さらに和田氏の屋敷内にあった胤長の邸宅が没収されて北条氏の家臣に与えられるという屈辱を味わわされた。これは、北条義時による意図的かつ巧妙な挑発であった。
和田合戦と北条氏執権体制の確立
義時からの度重なる挑発と面目丸潰れの処遇に激怒した義盛は、建暦3年(1213年)5月、ついに挙兵を決意する(和田合戦)。義盛は同族である三浦義村らに同調を求めたが、義村は起請文を書きながらも土壇場で義時方に寝返り、幕府側に和田の挙兵を密告した。
義盛率いる和田一族は将軍御所を襲撃し、鎌倉市街で数日間にわたる激しい市街戦を繰り広げた。和田勢は勇猛に戦い幕府軍を苦しめたものの、将軍・源実朝を擁し兵力で優位に立つ幕府軍の前に次第に劣勢となり、ついに義盛は討ち死にし、和田一族は滅亡した。
この事件の歴史的意義は極めて大きい。和田氏を滅ぼした北条義時は、大江広元から引き継いでいた政所別当に加えて、義盛が就いていた侍所別当をも兼務することになった。これにより、幕府の一般政務と軍事・警察権力の両方が北条氏の手に完全に握られることとなり、北条氏による執権体制が確固たるものとして確立する決定的な契機となったのである。