御家人

源頼朝をはじめとする鎌倉幕府の将軍と、直接的な主従関係を結んだ武士を何というか?
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★★★

御家人 (ごけにん)

1180年代〜1333年

【概説】
鎌倉時代において、鎌倉殿(将軍)と「御恩と奉公」による直接の主従関係を結んだ武士のこと。守護や地頭に任じられて各地の治安維持や年貢徴収にあたり、鎌倉幕府の軍事的・政治的基盤を支える中核的な存在であった。

「御恩」と「奉公」に基づく双務的契約関係

鎌倉時代の御家人制の最大の特徴は、将軍(鎌倉殿)と御家人が「御恩」「奉公」という具体的な利益と義務に基づく双務的契約関係で結ばれていた点にある。「御恩」とは、先祖伝来の所領の支配権を将軍が公式に保障する本領安堵(ほんりょうあんど)や、戦功に応じて新たな所領や官職を与える新恩給与(しんおんきゅうよ)を指す。武士にとって命懸けで守り抜くべき土地(一所懸命)の支配権が幕府によって法的に保護されることは、彼らが将軍に従属する最大の動機であった。

一方、御家人は「御恩」に対する報いとして「奉公」の義務を負った。有事の際には一族(惣領と庶子)を率いて幕府軍として戦う軍役のほか、平時においても京都の皇居や院御所の警護にあたる京都大番役、鎌倉の将軍御所を警護する鎌倉番役、さらには幕府の行事や寺社修造の費用を負担する関東御公事(かんとうみくじ)などの重い負担が求められた。

鎌倉幕府の全国支配を支える権力基盤

御家人の多くは、当初は源頼朝の挙兵に従った東国を中心とする有力な在地領主たちであった。彼らは国ごとに置かれた守護や、荘園・公領ごとに置かれた地頭に任じられ、治安維持や年貢徴収、軍事警察権を現地で行使した。これにより、幕府は京都の朝廷による支配機構と並行する形で、全国的な独自の武家支配網を構築することに成功した。

1221年(承久3年)の承久の乱で幕府が後鳥羽上皇方(朝廷)に勝利すると、没収された西国の皇室・公家領などに多数の東国御家人が「新補地頭」として赴任した。これを契機に、御家人制は西国にも広く浸透し、幕府の全国支配はより盤石なものとなった。また、将軍と直接結びつく御家人に対し、御家人の家臣や幕府と主従関係を持たない武士は「非御家人」と呼ばれ、両者の間には明確な身分的・特権的格差が形成された。

経済構造の変容と御家人体制の崩壊

鎌倉時代中期以降、幕府を支えてきた御家人社会は深刻な危機に直面する。当時の武家社会では、親の所領を複数の子供たちに分け与える分割相続が一般的であったため、世代を重ねるごとに個々の御家人の所領は細分化され、零細化が進んだ。加えて、宋銭の大量流入に伴う貨幣経済の浸透が農村部にも及び、武具の調達や生活様式の変化によって貨幣を必要とした御家人たちは、借上(かしあげ)などの高利貸しから借金を重ね、所領を売却・質入れして没落していく者が後を絶たなかった。

この窮状に致命的な拍車をかけたのが、1274年と1281年の二度にわたる元寇(文永・弘安の役)である。未曾有の国難に対し、御家人は多大な軍費を投じて奮戦したが、外国からの防衛戦であったため、勝利しても奪うべき新たな土地がなく、彼らに「奉公」に見合う「御恩(新恩給与)」を十分に与えることができなかった。これにより、幕府と御家人の間の信頼関係は大きく揺らぐこととなる。

事態を重く見た幕府は、1297年(永仁5年)に永仁の徳政令を発布し、御家人の所領の売買・質入れを禁じ、すでに手放した土地を無償で取り戻させることで救済を図った。しかし、これは金融流通の混乱を招き、結果的に御家人が新たにお金を借りることを困難にするという逆効果を生んだ。所領を失い流浪する没落御家人や非御家人は「悪党」化して社会の反乱分子となり、将軍と御家人の個人的な主従関係に立脚していた鎌倉幕府の体制は限界を迎え、1333年(元弘3年)の幕府滅亡とともに終焉を迎えたのである。

執権 北条氏と鎌倉幕府 (講談社学術文庫 2581)

北条氏の執権政治がいかにして鎌倉幕府の支配構造を規定し、変容させていったのかを解き明かす歴史探求の書。

御家人制の研究

武士の奉公と恩賞の論理を軸に、鎌倉幕府の根幹をなす御家人制の実態と統治メカニズムを検証する専門的研究。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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