那須与一 (なすのよいち)
生没年不詳
【概説】
治承・寿永の乱(源平合戦)期に活躍したとされる源氏方の武将。1185年の屋島の戦いにおいて、波間に揺れる平氏方の小舟に掲げられた「扇の的」を見事に射抜いた伝説的な弓の名手である。
屋島の戦いと「扇の的」の射手への抜擢
1185年(元暦2年/寿永4年)、源義経率いる源氏軍が讃岐国の平氏拠点を急襲した屋島の戦いにおいて、那須与一の名は歴史に刻まれることとなった。夕刻、休戦状態となった軍勢の前に、平氏方から一台の小舟が現れ、その竿の先に赤い日輪を描いた白い扇が掲げられた。これは「これを射てみよ」という平氏側からの挑発であった。
源氏の総大将であった源義経は、外せば源氏の名折れになるとして、軍中で随一の弓の名手と謳われていた下野国の住人、那須与一(宗隆)を射手に指名した。与一は当初、大役の重圧からこれを辞退しようとしたが、義経の強い命令により覚悟を決め、愛馬を海に進めて弓を構えたとされる。
『平家物語』における象徴性と中世武士の「名誉」
軍記物語である『平家物語』では、与一が「南無八幡大菩薩」と神仏に念じ、激しく揺れる波の上で見事に一矢で扇の要を射抜いた劇的な瞬間が描かれている。この一挙は敵味方の双方から大喝采を浴び、中世の「弓馬の道」における至高の名誉とされた。この功績により、与一は源頼朝から領地を賜り、後の那須氏の繁栄へと繋がったと伝えられている。
史実としての裏付けには乏しい側面もあるが、この逸話は、戦場における武勲の誇示や個人の名誉を何よりも重んじた東国武士(坂東武者)の精神性を象徴するエピソードとして、後世の能や歌舞伎などの芸能を通じて広く語り継がれることとなった。