蝦夷征討 (えみしせいとう)
【概説】
律令国家が東北地方へ勢力を拡大するため、朝廷の支配に服属しない地元の蝦夷を武力で平定しようとした一連の軍事行動。飛鳥時代から徐々に進められていたが、特に8世紀末から9世紀初頭の桓武天皇の時代に最大規模の軍隊が派遣された。この長年にわたる戦争は、朝廷の財政を圧迫し、律令体制が変質する大きな要因ともなった。
律令国家の版図拡大と「蝦夷」
律令国家の形成期にあたる7世紀後半以降、朝廷は天皇を中心とする中央集権体制の確立を目指し、同時に支配領域の外縁へと勢力を広げていった。当時、東日本(主に東北地方)に居住し、朝廷の支配に属さない人々は蝦夷(えみし)と呼ばれた。朝廷は彼らを「化外の民(王化の及ばない野蛮な異民族)」とみなし、服属を要求するとともに、軍事・行政の拠点として城柵(多賀城や秋田城など)を築き、農民を柵戸(きのへ)として移住させることで漸進的に支配領域を北上させていった。
三十八年戦争の勃発と桓武天皇の政策
8世紀後半に入ると、朝廷の強引な支配拡大に対して蝦夷の不満が爆発した。宝亀5年(774年)、蝦夷が陸奥国の桃生城を襲撃したことを契機に、その後約40年に及ぶ三十八年戦争と呼ばれる激しい戦いが幕を開けた。特に平安京遷都を行った桓武天皇は、新都の建設(造作)と並んでこの蝦夷征討(軍事)を国家の二大事業に位置づけ、大軍を度々東北地方へと派遣した。しかし、地の利を活かした蝦夷のゲリラ的戦法を前に朝廷軍は苦戦を強いられ、延暦8年(789年)の巣伏の戦いでは、アテルイ(阿弖流為)を指導者とする蝦夷軍によって紀古佐美率いる朝廷軍が壊滅的な打撃を受けている。
坂上田村麻呂の活躍とアテルイの降伏
事態の打開を図るため、桓武天皇は延暦16年(797年)に坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命した。田村麻呂は従来の徴兵された農民兵による大軍ではなく、騎射に優れた武舎人や健児(こんでい)を中心とする機動力の高い部隊を編成し、蝦夷の懐柔も交えた巧妙な戦術をとった。延暦21年(802年)、田村麻呂が敵地深くに胆沢城(現在の岩手県奥州市)を築くと、抵抗の限界を悟ったアテルイらは降伏し、田村麻呂の助命嘆願もむなしく平安京で処刑された。これにより、蝦夷の組織的な抵抗は大きく削がれ、翌年にはさらに北方に志波城が築かれて、朝廷の支配領域は現在の岩手県中部にまで到達した。
征討の終結と歴史的意義
朝廷の支配領域は拡大したものの、長期化する軍事行動は農民に極度の負担を強いており、国家財政も逼迫していた。延暦24年(805年)、桓武天皇は藤原緒嗣の「天下の民が苦しんでいるのは軍事と造作である」との建言を受け入れ(徳政相論)、大規模な征討と平安京の造営停止を決断した。その後、弘仁2年(811年)に嵯峨天皇のもとで文屋綿麻呂が爾薩体(にさったい)・弊伊(へい)の蝦夷を平定したのを最後に、国家事業としての蝦夷征討は事実上終結した。
蝦夷征討は、本州の大半を律令国家の支配下に収めるという結果をもたらした一方で、多大な軍事負担による律令制の弛緩・変質を早める要因となった。また、朝廷の支配下に組み込まれた「俘囚(ふしゅう)」と呼ばれる服属蝦夷は完全に同化されることはなく、のちに安倍氏や清原氏、そして奥州藤原氏といった独自の在地勢力が東北地方に台頭する土壌を形成することとなったのである。