征東大将軍(征東大使) (せいとうたいしょうぐん(せいとうたいし)
8世紀〜9世紀初頭
【概説】
奈良時代末期から平安時代初期にかけて、東北地方の蝦夷(えみし)を平定するために朝廷から臨時に任命された軍事指揮官の官職。のちに鎌倉幕府などで武家政権の首長を指すようになる「征夷大将軍」の前身にあたる職制。
蝦夷征討の本格化と紀古佐美の派遣
律令国家の版図拡大に伴い、朝廷は東北地方の「蝦夷」に対する支配を強めようとした。これに激しく抵抗する蝦夷を武力で平定するため、臨時の軍事最高指揮官として設けられたのが「征東大使(のちに征東大将軍)」や「持節征東将軍」などの職制である。
789年(延暦8年)、桓武天皇の命により紀古佐美(きのこさみ)が征東大使(征東大将軍)に任じられ、大規模な軍勢を率いて陸奥国へ下向した。しかし、胆沢(現在の岩手県奥州市周辺)を本拠地とする蝦夷の指導者アテルイ(阿弖流為)の巧みなゲリラ戦術に翻弄され、巣伏の戦いで歴史的な大敗を喫した。この敗北は、朝廷の軍事政策と地方支配のあり方に大きな見直しを迫る契機となった。
「征東」から「征夷」への変容とその意義
紀古佐美の失敗の後、朝廷は軍制を再編し、より強力な権限を持つ役職として「征夷大将軍」を設置した。794年(延暦13年)には大伴弟麻呂が初代の征夷大将軍に任じられ、次いで大将軍となった坂上田村麻呂によって、ようやく胆沢の平定が成し遂げられることとなる。
「征東(東を征する)」から「征夷(夷狄を征する)」への呼称の変化は、朝廷側が東北地方の住民を「化外の民(律令支配の及ばない野蛮人)」としてより明確に位置づけ、自らを中華帝国になぞらえた「小帝国」として権威づけようとした思想的背景を示している。この軍事的職能を示す臨時の官職が、後世において源頼朝らによる武家政権の首長たる「征夷大将軍」へと継承・発展していく出発点となった点において、歴史的に重要な意義を持っている。